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【心に響く漢詩】張継「楓橋夜泊」~姑蘇城外、寒山寺の鐘声 

    楓橋夜泊   楓橋(ふうきょう)夜泊(やはく)              
                       唐・張継(ちょうけい)
   月落烏啼霜滿天
   江楓漁火對愁眠
   姑蘇城外寒山寺
   夜半鐘聲到客船

 月(つき)落(お)ち 烏(からす)啼(な)いて 霜(しも)天(てん)に満(み)つ
 江楓(こうふう) 漁火(ぎょか) 愁眠(しゅうみん)に対(たい)す
 姑蘇(こそ)城外(じょうがい)の 寒山寺(かんざんじ)
 夜半(やはん)の鐘声(しょうせい) 客船(かくせん)に到(いた)る

 張継は、字は懿孫(いそん)、中唐の詩人です。
 天宝十二載(七五三)の進士で、大暦年間に洪州(江西省)の塩鉄判官(財務担当の属官)となり、検校祠部員外郎(礼制を掌る散官)の官位を授かっています。

 張継は、古今の絶唱「楓橋夜泊」一首によって、長く後世に名を残しています。

 「楓橋夜泊」は、旅愁を詠った名作として愛誦されている七言絶句で、寒山寺の名を天下に知らしめた詩でもあります。

 「楓橋」は、蘇州(江蘇省)の西郊にある橋の名です。運河に架けられた石橋です。

 蘇州は、風光明媚な水郷です。城内城外の至る所に水路が通じています。
「夜泊」は、夜間、舟を岸に繋いで宿ること。当時、日没後は、城門が閉まって城内に入れないので、城外の水路に停泊して夜を明かしました。

月(つき)落(お)ち 烏(からす)啼(な)いて 霜(しも)天(てん)に満(み)つ
江楓(こうふう) 漁火(ぎょか) 愁眠(しゅうみん)に対(たい)す

――月は沈み、カラスが鳴いて、夜空に霜気が満ちている。川辺の紅葉した楓樹、そして漁船のいさり火が、旅愁で眠れないわたしの目に映る。

 「霜滿天」は、霜が降りそうな寒気が辺りに満ちていること。古代、中国では、霜や露は、天から地上に降るものと考えられていました。

 「江楓」「漁火」は、いずれも暗闇に赤々とした色彩を添えています。
 「愁眠」は、旅愁のために、なかなか寝付けず、うつらうつらとまどろむさまをいいます。

姑蘇(こそ)城外(じょうがい)の 寒山寺(かんざんじ)
夜半(やはん)の鐘声(しょうせい) 客船(かくせん)に到(いた)る

――ふと姑蘇城外の寒山寺から、ボーン、ボーンと、真夜中を告げる鐘の音が、わたしの舟にまで聞こえてきた。

 「姑蘇城外」は、蘇州の町はずれ。「姑蘇」は、蘇州の古名。「城外」は、町を囲む城壁の外を言います。
 「寒山寺」は、蘇州の西郊、楓橋の東南約200メートルにある寺。寺の名は、唐代の詩僧、寒山がここに庵を結んだ、という伝承にちなんでいます。

 「夜半」は、真夜中。「客船」は、旅人である作者張継が乗っている舟を指します。
 舟中で、浅い眠りにうとうとしているところへ、鐘の音が響いてきます。随分と時間がたったかと思いきや、「嗚呼、まだ真夜中であったのか」と、やり過ごしようのない秋の夜長に旅愁を深めています。

 「楓橋夜泊」は、とても有名な詩です。また、それがゆえに、詩句の解釈について、古来、あれこれと異説の多い詩としても有名です。議論のいくつかをご紹介しましょう。

 まず、起句の「月落烏啼」について。
 「烏啼」は、烏啼山という山の名、あるいは烏啼橋という橋の名であるとして、ここは「月は烏啼(うてい)に落ち」と読むのだ、という説があります。
 しかし、これらの名称は、この詩が有名になった後に、この詩にちなんで付けられたものですから、この説は説得力に欠けます。

 次に、結句の「夜半鐘聲」について。
 北宋の文壇の重鎮、欧陽脩(おうようしゅう)が『六一(りくいつ)詩話)』の中で、この詩を評して、「三更(真夜中)に寺で鐘を打つはずがない。詩句は素晴らしいが、理屈に合わない」云々、と述べて物議をかもしました。

 以後、この句については、諸説紛々として、多くの文人たちによって議論がなされましたが、白居易の「藍渓(らんけい)に宿りて月に対す」と題する詩に、

  新秋(しんしゅう)松影(しょうえい)の下(もと)
  半夜(はんや)鐘声(しょうせい)の後(あと)

とあるなど、唐詩の中に、いくつか真夜中の鐘の音を歌った用例が見られることがわかっています。

 また、宋代に陸游など複数の文人が、蘇州で夜中に鐘の音を聞いたという体験を詩文に綴っていることから、当時、実際に寺院で夜中に鐘を打つ習慣があったことは明らかです。
 
 この件は、欧陽脩の誤解であった、という結論に落ち着いています。

寒山寺鐘楼


 もう一つ、「寒山寺」について。
 これは、現代に至って提示された説ですが、「楓橋夜泊」に歌われている「寒山寺」は、実は、かの蘇州の寒山寺のことではない、という注目すべき新説です。この説の要点は、次のようなものです。

 「寒山寺」という名称は、南宋以降のもので、それ以前は「妙利普明塔院」「普明禅院」などと呼ばれていた。
 この詩を収録する最古の詩集『中興間気集』(唐・高仲武編)では、詩題を「夜(よる)松江(しょうこう)に泊(はく)す」としている。松江は、太湖に源を発し、蘇州の南郊約25キロを流れる呉淞江のことである。
 欧陽脩の『六一詩話』では、第三句を「姑蘇臺下寒山寺」に作る。姑蘇台は、太湖のほとりにあった。
 つまり、張継は、呉淞江の川辺に停泊して、おそらく太湖沿岸の山寺から鳴り響いてきた鐘の音を聞いたのであろう。

 もしこの通りであるとすると、この詩の中の「寒山寺」は、寒山寺という固有名詞として読むのではなく、「寒山(かんざん)の寺(てら)」と訓読し、寒々とした晩秋の山中にある寺、という意味に解釈せねばならない、ということになります。

 寒山寺は、江南屈指の観光名所です。日本からも、毎年大晦日になると、寒山寺で除夜の鐘を撞こうと多くの観光客が訪れます。

 寒山寺を天下に知れわたる名刹たらしめたのは、ひとえに「楓橋夜泊」一首によるものですが、上の説に従えば、実は、蘇州の寒山寺と張継の詩は、まったく無関係であった、ということになります。

 「楓橋夜泊」を愛誦してきた漢詩愛好者にとっては、ずいぶんと興ざめな話です。

 しかしながら、この詩が、蘇州の寒山寺を歌ったものとして読まれてきた歴史の長さには、揺るがしがたいものがあります。
 
 考証の信憑性の高さを以てしても、この詩の文学作品としての風趣を減ずるものではなく、また、寒山寺の詩跡としての価値を下げるものでもないでしょう。

「楓橋夜泊」拓本

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