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【中国の歴史】覇王項羽の最期~四面楚歌で歌う「垓下の歌」

 本稿は、以下の記事の続稿です。↓↓↓ 


項羽

「項羽本紀」(続)

 「鴻門の会」は、中国史の一大転換点であった。

 歴史に「もし」はないが、もし、項荘の剣舞で劉邦が刺殺されていたら、あるいは、もし、項伯の調停がなく、そもそも「鴻門の会」自体がなかったとしたら、歴史上に劉氏の漢王朝が誕生することはなかった。

 さて、「鴻門の会」で謀殺されかけた劉邦は、張良や樊噲らに助けられ、かろうじて虎口を脱し、覇上に構えた自軍の陣営に逃げ帰る。

 項羽は、降伏した子嬰を処刑し、咸陽を焼き払い、財宝を略奪した。

 その後、項羽は、秦を滅ぼすのに功績のあった諸将を王侯に任じ、劉邦には、巴・蜀・漢中を与えて漢王とした。

 そして、楚の懐王を「義帝」として擁立し、項羽自身は「西楚の覇王」と名乗り、彭城(江蘇省徐州市)を都とした。

 項羽は、天下の実権を握るが、支配の仕方が強引で不公平であったため、諸将の離反が相次ぐ。

 漢中に追いやられていた劉邦は、しだいに力を増し、項羽に対抗する軍勢の中心となる。

 項羽が義帝を暗殺すると、大義名分を得た劉邦は、諸将に項羽討伐を呼びかける。

 こうして、項羽と劉邦が真正面から対立して覇を競い合う「楚漢戦争」が始まる。

 いざ幕が開くと、項羽と劉邦は、周囲の諸将を巻き込みながら、一進一退の攻防を繰り広げる。

 初めは優勢だった項羽の軍勢は、兵糧不足から疲弊し、劉邦の漢軍が形勢を逆転して優位に立つようになる。

 そして、漢軍に韓信・彭越らの軍が合流した連合軍が、ついに項羽を垓下(安徽省霊壁県)に追い詰める。

四面楚歌

 項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重なり。夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と。

――項羽の軍は、垓下に立てこもった。兵は少なく、食料は底をついていた。漢軍と諸侯の兵は、項羽の軍を幾重にも包囲していた。夜、漢軍の兵士たちが四方で皆楚国の歌を歌っているのを聞き、項王は大いに驚いた。
 「漢軍は、すでに楚国を占領したのだろうか。(漢軍の中に)なんと楚人の多いことか。」

 項王則ち夜起ちて帳中に飲す。美人有り、名は虞(ぐ)。常に幸せられて従う。駿馬(しゅんめ)あり、名は騅(すい)。常に之に騎す。
 是に於いて項王乃ち悲歌忼慨し、自ら詩を為(つく)りて曰く、

「力は山を抜き気は世を蓋(おお)う、
 時利あらず騅逝(ゆ)かず、
 騅の逝かざる奈何(いかん)すべき、
 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」

 歌うこと数闋(すうけつ)、美人之に和す。項王泣数行(すうこう)下る。
 左右皆泣き、能く仰ぎ視るもの莫し。

――そこで、項王は、夜起きて陣幕の中で酒を飲んだ。時に美人がいて、名を虞と言った。いつも項王に寵愛され、付き従っていた。また、騅という名の駿馬がいた。項王は、いつもこの馬に騎乗していた。ここに至り、項王は悲しげに歌い、感情を高ぶらせて、自ら詩を作って歌った。

  「力は山をも抜き、気概は世をおおう。
  しかし、時運に利無く、騅は進もうとしない。
  騅が進もうとしないのをどうすればよいのか。
  虞よ、虞よ、お前をどうすればよいのか。」

 数回繰り返し歌い、虞美人も唱和した。項王は幾筋かの涙を流した。
 側近たちも皆泣き、仰ぎ見ることのできる者は誰もいなかった。

 「垓下の歌」として知られるこの歌の原文は、以下の通りである。
 
  力拔山兮気蓋世
  時不利兮騅不逝
  騅不逝兮可奈何
  虞兮虞兮奈若

 これは、秦から漢初にかけて広く盛行した「楚歌」の形式で歌ったものである。

 「楚歌」とは、屈原の「離騒」に代表される「楚辞」の流れを汲む短篇の詩歌で、もとは南方の民謡であった。

 語調を整えるだけで特に意味を持たない助字「兮」を句中や句末に用いるところに特徴がある。

 秦の始皇帝を狙った刺客荊軻(けいか)の辞世の歌も、

  風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還
 (風蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去りて復た還らず)

というように、「楚歌」の形式で歌われている。

項羽の最期

 さて、窮地に陥った項羽は、八百余騎を率いて漢軍の包囲網を突破した。
 漢軍の灌嬰は、騎兵五千でこれを追撃した。
 項羽の手勢は、淮水を渡る時には、百余騎にまで減っていた。

 やがて漢軍に追いつかれ、敗走するうちに、味方の騎兵はわずか二十八騎になっていた。項羽は、騎兵たちに向かって言った。

 吾、兵を起こして今に至るまで八歲、身(みずか)ら七十余戦す。当たる所の者は破り、撃つ所の者は服し、未だ嘗(かつ)て敗北せざりき。 遂に天下を覇有(はゆう)せり。然るに今卒(つい)に此に困しむ。此れ天の我を亡ぼすなり。戦いの罪に非ざるなり。

――わしは兵を起こして八年、自ら出陣して七十余回戦った。当たった相手は倒し、攻めた相手は降伏させ、いままで敗れたことがなかった。そして、天下に覇を唱えたのだ。しかし、今、ついにこうして追い詰められている。これは、天がわしを滅ぼそうとしているのであり、戦い方が悪かったわけではない。

 項羽は、手勢の騎兵を四隊に分け、漢軍の将兵を次々に討ち取りながら東へ向かい、烏江(安徽省和県)に辿り着いた。

 烏江の亭長、 舟を檥(ぎ)して待つ。項王に謂いて曰く、「江東は小なりと雖も、地は方千里、衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。願わくは大王急ぎ渡れ。今独り臣のみ船有り。漢軍至るとも、以て渡る無からん」と。
 項王笑いて曰く、「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡るを為さん。且つ籍、江東の子弟八千人と江を渡りて西せり。今一人の還るもの無し。縱(たと)い江東の父兄憐れみて我を王とすとも、我何の面目ありてか之を見ん」と。

――烏江の亭長(宿場の長)は、舟を出す用意をして待っていた。項羽に向かって言った。「江東は、小さいとは言え、土地は千里、人口は数十万。王となるには十分の大きさです。大王殿、急いでお渡りください。今、私一人だけが舟を持っています。漢軍がやってきても、渡ることはできません。」
 項羽は、笑って言った。「天がわしを滅ぼそうとしているのだ。どうして渡ることができようか。しかも、わしは江東の子弟八千人と共に江を渡って西へ進み、今一人の帰る者もない。たとえ江東の父兄がわしを憐れんで王にしたとしても、何の面目があって彼らに会えようか。」

 項羽には、逃げ延びるチャンスが与えられていた。
 この時、天はまだ項羽を滅ぼしてはいなかったのである。

 しかし、江東へ逃げ帰るのは、自尊心の強い項羽の面子が許さなかった。

 独り舟に乗るのを潔しとせず、肉薄戦の末、自ら首を刎ねる。

杜牧「烏江亭に題す」

 項羽の自尽からおよそ千年の後、晩唐の詩人杜牧は、この歴史的事件に「もし」を加えた。

杜牧

 杜牧の七言絶句「烏江亭に題す」は、こう歌っている。

  勝敗兵家事不期
  包羞忍恥是男兒
  江東子弟多才俊
  巻土重來未可知


 勝敗(しょうはい)は 兵家(へいか)も事(こと)期(き)せず
 恥(はじ)を包(つつ)み羞(はじ)を忍(しの)ぶは 是(こ)れ男児(だんじ)
 江東(こうとう)の子弟(してい) 才俊(さいしゅん)多(おお)し
 土(つち)を巻(ま)き重(かさ)ねて来(きた)らば 未(いま)だ知(し)るべからず

――勝敗の行方は、兵法家でも予測し難い。
恥を耐え忍んでこそ、真の男児というものだ。
江東の若者には、優れた人材が多い。
もし、土を巻く勢いで再び立ち上がって戦っていたら、勝敗はどうなったかわからない。

 もし、項羽が恥を忍んで長江を渡り、態勢を立て直して再び劉邦と戦ったなら、天下はどちらに転んだかわからない。「捲土重来」もありえたのに、と杜牧は歌う。

 「鴻門の会」では、項羽が劉邦に生き延びる機会を与えてしまった。
 今、天が項羽に生き延びる機会を与えたにもかかわらず、項羽は、それを自ら放り投げてしまった。

 項羽を滅ぼしたのは、項羽自身であった。

 項羽亡き後、劉邦による天下統一、そして漢王朝の誕生へと歴史は大きく動いていく。

劉邦「大風の歌」

劉邦

 『史記』の「高祖本紀」によると、天下統一の後、劉邦は故郷に凱旋し、若者百二十人を集めて、天下の王者となった感慨をこう歌った。

 大風起兮雲飛揚
 威加海内兮歸故郷
 安得猛士兮守四方


大風(たいふう)起こりて 雲飛揚(ひよう)す
威は海内(かいだい)に加わりて 故郷に帰る
安(いずく)んぞ猛士を得て 四方を守らしめん

――激しい風が起り、雲が舞い上がる。
わが威光は天下を照らし、今われは故郷に帰る。
何処で勇士を集め、国を守らせたらよかろうか。

 これも「垓下の歌」と同じく「楚歌」の形式で歌われている。

 一方は、絶望の淵で悲痛をこらえながら歌い、一方は、歓喜の絶頂で意気揚々と声高らかに歌っている。

 天下を取るべくして取れなかった項羽と、偶々運良く天下を取った劉邦、皮肉にも、見事なほど対照的な歌いっぷりである。


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