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【中国の思想と文化】風月無尽~清風朗月は一銭の買うを用いず

「清風朗月は一銭の買うを用いず」(李白「襄陽歌」より)


哲人蘇軾の「赤壁の賦」


 北宋の蘇軾(号は東坡居士)は、古来、中華圏の人々に広く愛されている宋代随一の詩人である。

 その詩は、巨視的、楽観的な人生哲学に支えられ、理知的でありながら、かつ大らかで軽快な独特の風格を持つ。

 役人としては、当時のいわゆる旧法党に属していた。王安石の新法に反対したため、中央を逐われて地方の知事を歴任し、後半生は、南の果ての恵州(広東省)、さらには海南島へ流謫の身となった。

 強靱な精神の持ち主であり、逆境の中でも悲哀の気を漂わせることなく、悠々と達観した人生を送った。

蘇軾

 蘇軾の文章に「赤壁の賦」という珠玉の名作がある。元豊五年の秋、黄州(今の湖北省黄岡県)での作である。蘇軾は、当時、政争で罪を得てここに流されていた。

 赤壁は、呉蜀連合軍が曹操の大軍を破った地である。実際の古戦場は今の湖北省嘉魚県にあるが、蘇軾は黄州城外の赤鼻磯を赤壁に見立てて、この賦 を書いている。

凡人のセンチメンタリズム 

 「赤壁の賦」は、歴史懐古の文章ではない。月明かりに乗じて川面に舟を浮かべ、友人と酒を酌み交わす情景が描かれ、二人の問答を通じて、哲理的な議論が展開される。

 大船団が千里にも連なり、大小の軍旗が天を覆わんばかりであった赤壁の戦い、そのさなか、曹操は陣中で槊を横たえ詩を詠じたとされる。友人は、曹操の雄姿に思いを馳せ、しみじみとこう語る。

固(まこと)に一世(いっせい)の雄(ゆう)なるも、而(しか)るに今(いま)安(いず)くに在(あ)りや。況(いわ)んや吾(われ)と子(し)と、江渚(こうしょ)の上(ほとり)に漁樵(ぎょしょう)し、魚鰕(ぎょか)を侶(とも)とし麋鹿(びろく)を友(とも)とし、一葉(いちよう)の扁舟(へんしゅう)に駕(が)し、匏樽(ほうそん)を挙(あ)げて以(もっ)て相(あい)属(しょく)し、蜉蝣(ふゆう)を天地(てんち)に寄(よ)す、渺(びょう)たる滄海(そうかい)の一粟(いちぞく)なるをや。
吾(わ)が生(せい)の須臾(しゅゆ)なるを哀(かな)しみ、長江(ちょうこう)の無窮(むきゅう)なるを羨(うらや)む。

かの曹操はまことに一代の英雄であったが、今はいったいどこにいるのか。ましてや、我と君は、岸辺で魚を捕り柴を刈り、魚やエビや鹿と共に生きている身、一艘の小舟に乗り、ひさごの酒壺を挙げて酌み交わし、かげろうのように儚い命を天地の間に寄せている、大海原に落ちた一粒のアワのようにちっぽけな存在ではないか。我が生の短きことが悲しく、尽きることのない長江の流れが羨ましい。

 「一世の雄」と謳われた曹操でさえ、時の流れに洗い流され、今やもうこの世にいない。ましてや名もない我々は「滄海の一粟」の如きもの、と友人は人間存在の儚さを縷々述べる。

 「人生の須臾なるを悲しみ、大河の無窮なるを羨む」という言葉は、この世に生きる者誰でもが抱く思いであろう。有限の人生に対する悲哀は、中国文学の中にしばしば見られる人生観である。

 ところが、こうした凡人のセンチメンタリズムは、哲人蘇軾にはまったく通じない。これに続いて蘇軾の語った一節が、それをよく示している。

創造主の無尽蔵

 蘇軾は、友人の言を一蹴する。有限の人生に対する悲哀も、無限の自然に対する羨望も、そんなものは無用だと言う。

夫(そ)れ天地(てんち)の間(かん)、物(もの)各々(おのおの)主(しゅ)有(あ)り。苟(いやし)くも吾(われ)の有(ゆう)する所(ところ)に非(あら)ざれば、一毫(いちごう)と雖(いえど)も取(と)ること莫(な)し。惟(た)だ江上(こうじょう)の清風(せいふう)と、山間(さんかん)の明月(めいげつ)とは、耳(みみ)之(これ)を得(え)て声(こえ)を為(な)し、目(め)之(これ)に遇(あ)いて色(いろ)を成(な)す。之(これ)を取(と)るも禁(きん)ずる無(な)く、之(これ)を用(もち)うるも竭(つ)きず。是(こ)れ造物者(ぞうぶつしゃ)の無尽蔵(むじんぞう)なり。而(しか)して吾(われ)と子(し)の共(とも)に食(あじわ)う所(ところ)なり。

そもそも天地の間にあるものには、すべてそれぞれに持ち主がある。かりにも自分のものでなければ、一本の毛ほどのわずかなものでも奪い取ってはならない。ただ長江を渡るそよ風と、山間の明月だけは、耳には音色となり、目には景色となる。こればかりは、いくら取っても禁じられることがなく、いくら使っても無くなることがない。これぞ創造主の尽きることのない宝蔵であり、それを今こうして我と君とで享受しているのだ。

 ここには、蘇軾独特の超越的世界観、楽観的人生哲学が存分に披露されている。

 風月無尽、我々は無尽蔵の自然美を享受している。何を悲しむことがあろうか、何を羨むことがあろうか、と。

 「無尽蔵」は、元来は仏教用語で、あらゆる物を貯え、いくら取り出しても尽きることのない蔵のことをいう。

 「江上の清風」と「山間の明月」、自然の美は無尽蔵であり、しかも所有者もない。万人が好きなだけ存分に楽しめばよいという発想である。

 蘇軾は生き方の達人である。人生の楽しみ方を誰よりもよく知っている。とらわれやこだわりのない懐の広さこそ、彼が古来から人々に愛され続けている所以である。

清風朗月に銭は要らぬ

 蘇軾より三百年余り前、唐王朝の玄宗の治世に生きた詩人李白は、中国の詩の歴史に燦然と輝く天才詩人である。

 華やかな王朝の最盛期に自由奔放な生涯を送り、飄逸とした風趣の溢れる詩風から「詩仙」と呼ばれる。

李白

 楽天的な生き方の達人という意味では、李白は蘇軾の大先輩と言ってよいかもしれない。実は、自然の風物は楽しみ放題という発想も、蘇軾の独創ではなく、李白がすでに語っている。

 李白の「襄陽歌」と題する詩の中に、次のような一句がある。

清風(せいふう)朗月(ろうげつ)は一銭(いっせん)の買(か)うを用(もち)いず。 

清らかな風と明るい月は、一銭も出さずに楽しめる。

 「清風」と「朗月」は、一銭のお金も要らない、タダで存分に楽しめると歌っている。蘇軾が「赤壁の賦」の中で披露した自然美に対する考え方は、李白のこの一句に基づいたものである。

 自然の美は、万人のもの、誰もが思う存分楽しめるもの、そしてどれだけ多くの人間がどれだけたくさん楽しんでも決して枯渇することのない無尽蔵のものという考え方だ。いかにも大陸的で大らかな発想である。



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