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諸葛孔明「出師の表」を読む~忠臣は涙無くして読めない天下の名文

諸葛孔明

「三国志」物語の数ある見せ場の中でも、最も人の心を打つのが、諸葛孔明が後主劉禅に「出師(すいし)の表」を奉るシーンである。

「出師の表」の原文を読む前に、まずその背景を見てみよう。

劉備、孔明に後事を託す

 220年、曹操が死去し、曹丕が献帝の禅譲を受けて皇帝に即位し、魏王朝を建てる。これに対抗して、翌年、劉備が成都で即位し、蜀を建国する。

 劉備は、孫権が義兄弟の関羽を謀殺したことの報復として呉を攻めるが、夷陵の戦いで敗れる。敗走した劉備は、白帝城に逃げ込み、223年、病に臥し、陣没した。 

劉備

 劉備は、臨終の際、諸葛孔明を成都から召し、後事を託してこう告げた。

 君が才は曹丕(そうひ)に十倍す。必ず能(よ)く国を安んじ、終(つい)に大事を定めん。若(も)し嗣子(しし)輔(たす)くべくんば之を輔けよ。如(も)し其れ不才(ふさい)ならば、君自ら取るべし。

(そなたの才能は、曹丕の十倍に値する。必ずや国をよく治め、ついには、天下統一の事業を達成してくれよう。わが跡取り息子が、輔佐する価値のある人間であれば、輔佐して欲しい。もし息子が無能であれば、そなたが自ら帝位を取ってくれ。)

 続いて、息子の劉禅に対して、こう言い含める。

 汝(なんじ)丞相(じようしよう)と与(とも)に事に従い、之に事(つか)うるに父の如くせよ。

(お前は、丞相と共に国事に当たり、父親に対するのと同じように、丞相に仕えなさい。)  

 「息子の出来が悪ければ、自らが帝位を取れ」という言葉、そして息子に向かって、「父親同然に仕えよ」という言葉に、劉備の孔明に対する信頼の篤さがうかがえる。

 

劉禅

 劉禅は暗愚であったが、孔明は帝位を取ることなく、臣下として全身全霊を傾けて輔佐し続けた。

 そして、自ら軍隊を率いて、南征・北伐の大役を担う。
 南の蛮族を鎮めると、いよいよ北の魏を伐つべく、劉禅に出陣の上奏文を奉る。かの名高い「出師の表」である。

孔明「出師の表」を奉る

 「出師の表」は、出陣に際して、臣下が君主に奉る文書のことである。
 孔明が劉禅に奉ったものは、前後二篇ある。「前出師の表」は227年、「後出師の表」は、翌228年に奉っている。

 ここで、「前出師の表」から、数段落を抜粋して読んでみたい。

 先帝、業(ぎょう)を創(はじ)めて未だ半(なか)ばならずして、中道(ちゅうどう)に崩殂(ほうそ)す。今、天下は三分し、益州(えきしゅう)疲弊せり。此れ誠に危急(ききゅう)存亡(そんぼう)の秋(とき)なり。
 然れども侍衛(じえい)の臣、内に懈(おこた)らず、忠志(ちゅうし)の士、身を外に忘るるは、蓋(けだ)し先帝の殊遇(しゅぐう)を追い、之を陛下に報いんと欲すればなり。
 誠に宜しく聖聴(せいちょう)を開張(かいちょう)し、以て先帝の遺徳(いとく)を光(おお)いにし、志士(しし)の気を恢弘(かいこう)すべし。
 宜しく妄(みだ)りに自ら菲薄(ひはく)し、喩えを引き義を失い、以て忠諫(ちゅうかん)の路を塞(ふさ)ぐべからず。

(先帝は、漢王室再興の大業を始められましたが、道半ばにも達しないうちに、途中で崩御されてしまいました。今、天下は三分され、益州は疲弊しております。これは、まさにわが蜀の存亡のかかった危うい時であります。
 それにもかかわらず、側近の臣下が、宮廷で職務を怠らず、忠義の武人が、戦場でわが身を顧みずに戦うのは、思うに、先帝から受けた特別な待遇を追想し、これを陛下に対して報いようとしているからでありましょう。
 ぜひとも、陛下は、臣下の進言を広くお聞き入れになり、先帝の遺徳を大いに明らかにし、志ある者の意気を発揚させるようなさるのがよろしいかと存じます。
 みだりに御身を軽んじ、筋道の通らない喩えを引いて、忠誠な臣下の諌言をお聞き入れにならないようなことがあってはなりません) 

「先帝」は、蜀漢の先主、劉備。この時、劉備はすでに没していて、孔明が「出師の表」を奉ったのは、後主劉禅である。

「益州」は、現在の四川省。蜀漢の領土であった。肥沃な土地であり、四方を山に囲まれた天然の要塞でもある。

「危急存亡之秋」は、国の存亡が掛かる危うい時。「秋」は、穀物の収穫の時期であるため、広く物事を行う上での大事な時をいう。

「菲薄」は、徳が薄いこと、品格が劣っていること。劉禅は、もっぱら暗愚な君主というレッテルを貼られていた。孔明は、劉禅に対し、自らを軽んじ卑下することなきように、と言い含めている。

 臣は本(もと)布衣(ふい)にして、躬(みずか)ら南陽(なんよう)に耕す。苟(いやし)くも性命を乱世に全うせんとし、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。
 先帝は臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)し、三たび臣を草廬(そうろ)の中に顧み、臣に諮るに当世の事を以てす。是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くち)を以てす。
 後に傾覆(けいふく)に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来(じらい)二十有一年なり。

(わたしは、もともと無位無冠の身で、自ら南陽で田畑を耕しておりました。ただ乱世に天寿を全うできればよいと思い、諸侯に名が知れて出世しようなどとは望んでおりませんでした。
 先帝は、わたしが賤しき者であることを気になさらず、かたじけなくも、自ら尊貴のご身分を曲げて、わたしをあばら屋に三度も訪れてくださり、当世の時局についてお尋ねになられました。わたしはこのことに心を打たれ、かくして先帝にお仕えして奔走することを承諾いたしたのです。
 のち、蜀が滅亡の危機に直面し、敗北のさなかに任務を受け、危難の中でご命令を拝しました。それ以来、二十一年の歳月が過ぎました。)

「布衣」は、布(木綿や麻など)で編んだ庶民の服。転じて、無位無官の者をいう。
 
「南陽」は、荊州(今の湖北省)南陽郡。孔明は、出仕する前、ここで晴耕雨読の生活をしていた。

「三顧草廬」は、三顧の礼のことをいう。劉備が、軍師としての出仕を請うため、諸葛孔明を三度訪ねてようやく会えたという故事である。

「当世之事」は、当時の世の時局。これを劉備に問われて、孔明は「天下三分の計」を献じた。曹操・孫権と正面から戦うのを避け、まずは荊州・益州に基盤を築き、「天下三分」の形勢を作った上で、孫権と同盟を結び、機を見て北上して曹操を攻め、漢室を復興させる、という構想である。

「二十有一年」は、孔明が劉備の軍師となった207年から、「出師の表」を奉った227年までをいう。

三顧の礼

 先帝は臣の謹慎(きんしん)なるを知る。故に崩ずるに臨みて臣に寄するに大事を以てす。命を受けて以来、夙夜(しゅくや)憂歎(ゆうたん)し、託付の効あらずして、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。
 故に五月に濾(ろ)を渡り、深く不毛に入る。今南方已に定まり、兵甲(へいこう)已に足る。当に三軍を奨率(しょうすい)し、北のかた中原(ちゅうげん)を定むべし。
 庶(こいねが)わくは駑鈍(どどん)を竭(つく)し、姦凶(かんきょう)を攘除(じょうじょ)し、漢室を興復し、旧都に還さんことを。此れ臣の先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。

(先帝は、わたしが慎み深いことを知っておられました。そのため、崩御されるに臨んで、わたしに国の大事を託されたのです。わたしは、命を受けて以来、日夜憂慮し、託されたことに何の成果も挙げることができず、先帝のご英明に傷をつけてしまわないかと恐れておりました。
 そこで、五月に濾水を渡って、深く不毛の地に軍を進めました。今、南方はすでに定まり、軍備もすでに十分足りております。今こそ全軍を率いて北へ進み、中原を平定すべき時です。
 願わくは、愚鈍な才の限りを尽くして、姦賊を打ち払い、漢室を復興して旧都に帰還せしめたく存じます。このことこそ、わたしが、先帝のご恩に報いて、陛下に真心を尽くすためになすべき務めでございます。)

「濾」は、濾水。四川と雲南の間を流れる川。225年、孔明は、濾水を渡り、南蛮を征伐した。「七縦七擒」(敵将の孟獲を七回捕らえ七回放して心服させたという故事)は、この時のものである。

「中原」は、黄河の中下流域一帯。中華文明の発祥地とされる。現在の河南省、山東省、山西省、河北省、陝西省一帯の平原地帯を指す。

「姦凶」は、凶悪な賊徒。魏を指す。226年(「出師の表」が書かれた前年)、曹丕が崩じ、曹叡が即位している。

岳飛書「前出師表」

「出師の表」は、蜀の危機を伝えることから始め、先帝の恩恵にあずかった自らの生涯を語る。そして、南方が平定された今、中原を奪回すべく出陣する決意を述べる。

 先主劉備の恩顧に報い、後主劉禅をわが子のように教え諭し、漢室の復興を誓った諸葛孔明の至誠の情が全篇に溢れている。

 南宋の安子順は、次のように評している。

諸葛孔明の出師の表を読みて、涙を堕(おと)さざれば、その人必ず不忠。

 古来、これを読んで泣かない者は忠臣ではない、とまで言われた、天下の名文である。

 孔明は、227年から、数回にわたり、魏に対する北伐を行った。

 しかし、ついに、勝利することなく、魏の将軍司馬懿の持久作戦で窮地に陥り、234年、五丈原にて陣没する。

五丈原


原文

 出師表(節録)
                           蜀・諸葛亮
 先帝創業未半、而中道崩殂。今天下三分、益州疲弊。此誠危急存亡之秋也。然侍衛之臣、不懈於内、忠志之士、忘身於外者、蓋追先帝之殊遇、欲報之於陛下也。誠宜開張聖聽、以光先帝遺德、恢弘志士之氣。不宜妄自菲薄、引喩失義、以塞忠諫之路也。(中略)
 臣本布衣、躬耕於南陽。苟全性命於亂世、不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以當世之事。由是感激、遂許先帝以驅馳。後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之閒。爾來二十有一年矣。
 先帝知臣謹愼。故臨崩寄臣以大事也。受命以來、夙夜憂歎、恐託付不効、以傷先帝之明。故五月渡濾、深入不毛。今南方已定、兵甲已足。當獎率三軍、北定中原。庶竭駑鈍、攘除姦凶、興復漢室、還於舊都。此臣之所以報先帝而忠陛下之職分也。(後略)

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