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【心に響く漢詩】李白「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」~尽きぬ惜別の思い滾々たる長江に託す

李白

     黄鶴樓送孟浩然之廣陵
  黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の広陵(こうりょう)に
  之(ゆ)くを送(おく)る   
                            唐・李白
  故人西辭黄鶴樓  
  煙花三月下揚州
  孤帆遠影碧空盡
  惟見長江天際流

故人(こじん) 西(にし)のかた黄鶴楼(こうかくろう)を辞(じ)し
煙花(えんか)三月(さんがつ)揚州(ようしゅう)に下(くだ)る
孤帆(こはん)の遠影(えんえい) 碧空(へきくう)に尽(つ)き
惟(た)だ見(み)る 長江(ちょうこう)の天際(てんさい)に流(なが)るるを

 李白については、こちらをご参照ください。↓↓↓

 漢詩では、送別が、主なテーマの一つです。

 古い時代の中国では、詩人は、ほとんどの場合、職業的には役人でした。
 役人は、たびたび転任を命じられるので、旅立ちの際に、知人同士が互いに見送ったり、見送られたりする機会が多くありました。
 その際に、別れゆく友のために詩を作って贈るのが慣わしでした。

 李白の七言絶句「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」は、送別詩の代表的作品です。
 長江を下って揚州へ旅立とうとする友人孟浩然(もうこうねん)を見送った詩です。

孟浩然

 孟浩然は、五言絶句「春暁(しゅんぎょう)」で知られる詩人です。
 科挙に受からず、各地を遊歴しましたが、その間に多くの詩人たちと交遊しています。
 李白より十二歳年上で、李白は、孟浩然の隠者的な人柄をたいへん慕っていました。 

故人(こじん) 西(にし)のかた黄鶴楼(こうかくろう)を辞(じ)し
煙花(えんか)三月(さんがつ) 揚州(ようしゅう)に下(くだ)る

――わが友は、西のかた黄鶴楼に別れを告げ、霞たなびき、花咲き乱れる春三月、揚州へと下っていく。

「故人」は、古くからの親しい友人。孟浩然を指します。
「黄鶴樓」は、武昌(湖北省武漢市)の長江沿いの高台に建つ楼閣です。

 黄鶴楼には、次のような伝説があります。

 昔、ある仙人が、酒屋でただで酒を飲ませてもらっていた。仙人は、そのお礼に、酒屋の壁に橘(みかん)の皮で、鶴の絵を描いて立ち去った。
 その鶴は、客が手拍子を打つと舞い出すので評判になり、やがて酒屋の主人は大金持ちになった。
 ある日、仙人が再び訪れ、鶴に乗って何処ともなく飛び去って行った。
 酒屋の主人は、これを記念して楼閣を建て、黄鶴楼と名付けた。

「煙花」は、春霞の中に咲く花。美しい春の景色をいいます。
「三月」は、陰暦の三月。陰暦では、一月から三月までを春としますので、三月は晩春になります。
「揚州」は、今の江蘇省揚州市。詩題に見える「廣陵」は、揚州の古称。
隋の煬帝が、大運河を建設し、揚州を洛陽、長安につなげました。当時は、水陸交通の要衝として、経済・文化ともに栄えた繁華な大都会でした。  

孤帆(こはん)の遠影(えんえい) 碧空(へきくう)に尽(つ)き
惟(た)だ見(み)る 長江(ちょうこう)の天際(てんさい)に流(なが)るるを

――ぽつんと一つ浮かんだ帆影は、遠く紺碧の空に吸い込まれて消え、そのあとには、ただ長江が天の果てまで滔々と流れていくのが見えるばかりだ。

 「碧空」は、深緑色の青々とした空。
 「天際」は、天の果て。天空と長江が交わるところをいいます。

 いつの世でも、親しい友との別れは、悲しいものです。とかく悲しみの涙とともに、湿っぽい感情が伴いがちになります。

 唐代の送別詩は、そのようなセンチメンタリズムを排し、ことさら叙景に徹して歌う作品が多く見られます。

 あえてさっぱりと爽快に歌うことによって、かえって別離の情を深く湛える、という趣向です。

 この李白の詩でも、別離の悲しみを表す言葉は、一つも使っていません。余計な感傷は一切交えず、敬愛する友に対する深い惜別の思いを滾々と尽きることのない長江の流れに代弁させているのです。


黄鶴楼

 



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