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無為のひと

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アルコール依存にまつわる連作小説です。
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記事一覧

【連作】無為のひと①飲酒の起源

【連作】無為のひと①飲酒の起源

 あの頃、私たちは毎晩のように呑んだくれていた、酒に溺れていたと言ってもいい。実のところ、今でもそうなのだが。そうは言っても、アルコール依存症にはなっていなかったと思う。今では、完全にそうなってしまったのだが。

 酒を呑みながら、ふと私たちはいつから飲酒しているのだろうと思ったことがある。一身上の履歴ではなくて、仲間内のことでもなく、人類全体に関する壮大なる問いである。人類の飲酒の歴史というもの

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【連作】無為のひと②震災のあとで

【連作】無為のひと②震災のあとで

 大きな震災があり、たくさんの人々が亡くなった。倉木が被災地復興のため東北へと流れたのは、もちろんボランティアのためではなく、条件の良い日雇い労働のためだった。人手不足で声がかかったのである。海岸通りを車で走ると、見渡す限りに更地が広がったという。ところどころひび割れ、陥没した道を走り、ほとんど手つかずの瓦礫の山を車窓から眺めた、津波で廃墟となった小学校の灰色の校舎を見た、なぜか一軒だけ流されずに

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【連作】無為のひと③光と陰

【連作】無為のひと③光と陰

 倉木が東北から東京に戻り早速顔を出すと、珍しいことに、というか絶えてなかったことだが、バー《アルバトロス》は大変混み合っていた。マスターの退院祝い(復帰してまだ一週間も経っていなかった)に常連だけでなく足が遠のいていたかつての馴染み客も一挙に駆けつけてきてたようで、にわか景気に湧いている。

 カウンターの向こうで妙に白い顔をして、忙しそうに酒をつくっているマスターに目礼すると、口角を上げて返礼

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【連作】無為のひと④風前の灯火

【連作】無為のひと④風前の灯火

あるとき、いつものように《アルバトロス》を訪れると、とうとう電気が止まって、いや止められて、元々暗い店だったのが、明かりはカウンターに並べられた乏しい蝋燭の光だけとなっていた。とうとう客はひとりもいない、見えないのではなく、本当に空っぽである。まさに風前の灯である炎のゆらめきに、マスターの姿が幽鬼めいて浮かび上がり、いっそ風情が感じられる。毎晩のようにグラスが落ちて砕け、目減りしていった。電気

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【連作】無為のひと⑤諸行無常の響きありだ

【連作】無為のひと⑤諸行無常の響きありだ

 こうしてバー《アルバトロス》は呆気なく潰れた、端から見るとある日突然ぷつんと、しかし内側からはじわりじわりと蝕まれ(まるで脳の血管の溜や栓がしだいに大きくなるかのように)、何の計画性もなく、それでいて偶然などではまるでなくあくまでも必然的に。

 街を歩いていると、ビルの解体や新築工事、テナントの入れ替わり、区画整理などにより風景がどんどん移り変わってゆくことに気づかされることがあるが、人の成長

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【連作】無為のひと⑥彼の故郷

【連作】無為のひと⑥彼の故郷

 バー《アルバトロス》の閉店というか、大家による強制封鎖、もしくは強制退去は、それほど私たちの間では話題にはならなかった。事実上とっくに開店休業状態で、倉木以外に足を向ける者が誰もいなくなっていたのだから、「とうとう」というより、今更の話だったのである。

 店というパーツは欠けてしまった。街頭レベルの新陳代謝である。それはそれで宜しいが、マスターというパーツ、こちらの方は未だ欠けずにどこかに残っ

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【連作】無為のひと⑦去る者は日々に疎し、なのだ

【連作】無為のひと⑦去る者は日々に疎し、なのだ

 私たちがひさしぶりに会うマスターは、控え目に言うと清潔とは言い難い服装で無精髭も見苦しく、相変わらず洗濯も入浴していないのか饐えた臭いが漂ってきたけれど、どういうわけか生気を取り戻し瞳に輝きが戻っていた。

 その昔、まだ炭火で焼き鳥を炙っていた頃、バーに改装する前の串打ち《アルバトロス》でアルバイトしていたというシンさんが独立した昭和風のもつ焼き屋《信天翁》が、私たちの新しい行きつけとなってい

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【連載】無為のひと⑧ひとつの結末

【連載】無為のひと⑧ひとつの結末

 マスターは退院した後、リハビリどころか、定期検診にすら通わなかったという。金の問題もあったかもしれないが、単に面倒くさかったのだろう。店が潰れ、妹の尽力で生活保護を受給するようになって、何もしなくても良くなり、何もすることがなくなると、本当に何もしなくなった。いや、元々無精者でだらしのないところがあって、そこが母性本能をくすぐるというか、かつては女の人に「わたしがいないと駄目」なんて思わせたもの

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