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【掌編】恐るべき女たち ※A子の場合

 その昔、ダメ男たちのことをダメンズと称して、その生態(と彼らの恋人の被害)を描いたギャグマンガが人気を博した。TVドラマにもなったらしい。どころか、今調べてみたら、アニメや映画にもなったようだ。

 田舎に帰省したときに、妹がそのマンガを放っているのをこっそり読んだのだが、実に衝撃的だった。甲斐性なしはともかく、無職、ヒモ生活、借金、暴力、情緒不安定、アルコール依存、ギャンブル依存、浮気、嫉妬、束縛、妄想……全然笑えなかった。そして、なんだ自分はまだまだマシな方ではないかと妙な自信を抱いたものである(けれども、天晴れなゲスやクズに決まって彼女がいるのに、自分はずっと女旱おんなひでりが続いているのはなぜなのかとは問わなかった)。

 そんなことを思い出したのは、呑み屋で初対面の男から身の上話を聞かされて、ダメなのは何も男ばかりではない、とまあ当たり前なようなことを改めて思ったからである。繰り返すが、聞いた話であって、私自身の体験談ではない。

 居酒屋で長いこと修行してお金を貯め、そして親と親戚に借金までして、ぼくはとうとう自分の店を開くことができた(と、男は語りだした)。カウンターにテーブル三卓のしがない焼き鳥屋だけれど、ぼくもようやく一国一城の主になったわけだ。それこそ馬車馬のように働いたね。

 その店で、ぼくはA子と出会った。店主と客の間柄だよ。最初は年配の男性に連れられてきて、全てご馳走になり、次にはまた別の男性に同伴していたように覚えている。そのうちにひとりで立ち寄るようになり、カウンターでぽつんと日本酒を舐めているうちに、常連とも顔馴染みになり、彼女自身が常連になった。

 今思えば、アルコール依存症の予備軍だったのだろうけど、そんなに乱れることもなく、若くて愛嬌もあり、微笑むと笑窪が可愛く、年寄りたちのアイドルだった。当時はぼくもまだまだ若かったし、夜の早い老人が退けて店でふたり切りになると、なんとなく良いというか、やらしい雰囲気になり、すぐに肉体関係を結んだ。呑み屋だから当たり前だけれど、店仕舞いの時分には、A子はすっかり出来上がっていたものだし、こちらも下心があってサービスで呑ませたりもした。

 そんなこんなで彼女は僕が住んでいる公団団地(今では高齢化が進み、外国人が増えた)に越してきて、披露宴も挙げず請われるれるままにただ籍を入れた。ふたりで暮らすようになって初めて、素面でいる彼女の姿を見たといっても過言ではない。

 新婚の甘く情熱的な日々が過ぎると、仕込み、注文、配膳、会計など一通り店の手伝いをやらせてみたが、いない方がどれほど役に立ったかわからない。家事についても、炊事洗濯掃除、いずれも見事なまでに何もできない、いやしようとしない人だった。席を立つのもトイレに行く時だけ。明るいうちは、スナックなどつまみながらずっとTVを見ていて、暗くなると元気になって只酒只飯を喰らいに店にふらーっとやって来る。そんなときだけは、酔って周囲の男たちに愛想を振りまくのだ。

 もちろん、ぼくは早まったのであって、今更後悔しても遅かった。考えてみれば、彼女の両親に挨拶に行ったわけでもなく、友だちひとりも知らず、婚姻届を書くときに彼女の戸籍謄本をチラと目にしたことがあるだけで、彼女が一体何者なのか知りもしないのだ。過去を一切話さないし、そういえば、うちに越してくる時もほとんど着の身着のままだった。

 しだいに彼女は肥えだし、笑窪も消え二重顎になり、したがって愛嬌を失い、自分にとってもはやただそこにいるだけの人になった。家にいてくつろいでいても、店にいて忙しく立ち働いていても、嫌でも目についてくるんだな。そりゃ、恐ろしく目障りだよ。

 だから、A子が常連のひとりと長らく不倫していたことが発覚して、ふたりで暮らすと言い出したとき、ハラワタが煮えくり返るどころか、これは天祐てんゆうに違いないと思ったほどだったね。現場作業員だという屈強な中年がぼくの前で「すんません、ほんますいません」と頭を下げて、「さあ、お前も頭を下げて」などと、自分の嫁を「お前」呼ばわりされてもちっとも腹が立たず、実を言うととんでもない解放感だった。やはり神はいる、そんなこともチラと思ったほどだ。A子はこちらに目を合わさず(気まずいからというのではなく、不貞腐れているように)、「今までありがとう」と、らしくもない感謝の言葉を述べた。

「こちらこそ、(出て行ってくれて)本当にありがとう」

 ところが、そんなぼくの自由は、一週間も続かなかったんだ。ピンポーンとチャイムが鳴り、扉の魚眼レンズからのぞくと、ふたりが並んで立っている。実にイヤな気分がしたね。
「すんません、ほんますんません」と、男は同じセリフを口にして、今度は土下座までしてみせた。「やっぱりお返しします。ほら、お前も頭を下げて」
 A子は、しかし頭を下げず、やはり目を合わさないまま「ただいま」とだけ言った。
 男女の仲にクーリング・オフ制度(八日目までなら返品可能だったっけ)などあるわけないのだが、うっかり除籍することも忘れており、ぼくは彼女を引き取らずに済ますことはできなかった。神など存在するわけがない。

 それから例の金融危機があり、高齢の常連はみんな亡くなり、若い人のアルコール離れはとどまることなく、結局ぼくは大切な店を手放した。残ったのは借金とA子だけだった。現場作業もこなしたし、外国人に混じって工場のラインにも立ったし、赤く光る誘導灯を振りまわして深夜の交通整理もしたな。それでも借金を返済できず、拝み倒してA子に働きに出てもらった。

 いや、もういっそ清々しいばかりの無能ぶりで、今更驚くべきほどのこともなかったけれど、三日も続かない。三日持てば良い方だった。スーパーのパートでは初日の午後には勝手にうちに逃げ帰ってきたし、ファミレスのバイトでは休憩時間に行方をくらまし、警備の仕事は出勤すらしなかった。ちょっと親の顔が見たいと思ったけれど、それも叶わない。ひょっとしたら、彼女の両親はずっと遠い昔に娘を家から追い出し、縁を切って二度と関わらないようにしているのかもしれない、そうに違いない。

「それでどうなったんですか?」と、私は訊いた。
「どうにもこうにも、どうにもならないよ」
「じゃあ、奥さんは……」
「家にいるよ」
「今も帰りを待っていると」
「待っているんじゃないなあ、なんというか、そこにいるんだ。太り過ぎてもう動けなくなった。でも、ただそこにいるだけでなく、ぼくより年下なのにもう要介護状態なんだ。そろそろ帰ってオムツを替えてあげないと……」

(了)

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