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【連載】無為のひと⑧ひとつの結末

 マスターは退院した後、リハビリどころか、定期検診にすら通わなかったという。金の問題もあったかもしれないが、単に面倒くさかったのだろう。店が潰れ、妹の尽力で生活保護を受給するようになって、何もしなくても良くなり、何もすることがなくなると、本当に何もしなくなった。いや、元々無精者でだらしのないところがあって、そこが母性本能をくすぐるというか、かつては女の人に「わたしがいないと駄目」なんて思わせたものなんだろうが、炊事・洗濯・掃除など一切の家事どころか、入浴もしなくなった。離婚して(出て行かないから裁判を起こされ)強制的に家から追い出されてからは風呂なしアパートで一人暮らし、不潔な身なりのために銭湯で門前払いされるようになると、コインシャワーを使っていたが、とうとうそれも面倒になってしまったらしい。

 働いていないから、二十四時間すべて自分の好きにできる自由時間だったのにもかかわらず、喫煙と飲酒以外は何もしない。唯一の趣味と言えたパチンコをする金もないし、興味も失せた。ボロアパートの六畳で、頬杖ついて横になって(図らずもお釈迦様の涅槃像のポーズをとって)、TVを観ているだけの日々だから、肘についた畳の目の赤い跡が消えることはない。TVを観るとはいっても、その内容に興味を覚えているとか、理解しているという風には受けとらないでほしい。もはやそういう境地ではなかった。

 一日中横になっているから、夜になっても眠れず、倉木に電話し、「眠れない、眠れない」と訴え、ウイスキーをボトルでラッパ呑みしては、昏倒するように眠りにつく。「眠くないなら、起きてりゃいいじゃん」と答えておいたが、何もすることがないし、したいことも何もないから、ずっと目覚めたままでいることに耐えられなかったのだろう。

 この《信天翁あほうどり》にパッタリと姿を現さなくなったのも、金がもったいないし、とうとう出歩くことすら面倒になったからだった。酒と煙草の他には、アイスクリームやアイスキャンディー、甘い清涼飲料水などを主な栄養源として摂取していたようで、受診しないから詳しいことはわからないけれど、おそらく糖尿病になっていただろう。「勃たない、勃たない」と倉木に電話で訴えるのである。「どうせ使い道なんてないのに……」

 髪も切らず、髭も剃らず、歯がないから歯を磨かないのは良いとして、入れ歯を洗浄せず、通りを歩くと人が避ける。ホームレスの方がよっぽど清潔かと思われる。そうしてある朝、半身が痺れて起き上がれない。自由の利く方の半身を引き剥がすように立とうとするのだが、何度試みても不可能だった。六畳一間の万年床に結わえつけられたか、そこだけいきなり重力が増したかのようだった。辛うじて動く方の手を使って、枕元の携帯電話に登録してある倉木の番号を選択する。

 それが平日の午前中で、倉木は都心の土木工事現場で資材の搬入を手伝っていた。本格的な暑さの到来までまだあるが、鉄筋の束を肩に担いで移動すれば、かなり汗ばむ。十時からの一服でペットボトルのスポーツドリンクで水分補給しながら携帯を見ると、マスターからの着信が十件以上あって舌打ちする、今更メールの打ち方を覚えろとか無理なことは要求しないから、せめて伝言メッセージくらい残せよと思ってしまう。

「どうしたい? 何かあったのか?」
 もはやタメ口であった。
「倉木か? 体が動かねえんだ……」呂律が回らないということもなく、静かな口調だったので、倉木も平静のまま応える。
「そっかー、で大丈夫?」
「大丈夫なわけないだろ。呑気なこと言ってんじゃないよ、立ち上がれねえんだ」
「じゃあ救急車を呼ぶしかない。いや、こっちで呼ぼうか?」
「頼む、助けてくれ、今すぐ来てくれ」
「あのね、今仕事中なんだよ、無茶言わんといて下さい」
「事情があって救急車は呼べねえんだ、頼む、後生だから来てくれ、助けてくれ」

 パニックではないが、どうにも様子がおかしい。しかし今となっては、地方の妹さんに電話したときに感じていたような切迫感もなく、実のところ心なかではとっくにケリをつけていた。とうにマスターのことを見捨てている自分に、今更ながら気がついたのである。なぜぼくが? という思いがある一方で、結局引導を渡す者は他にはいないという諦めに似た思いもある。適当な理由をでっち上げて仕事を早退すると、電車を乗り継いで地元へ戻る。酔っ払ってぐでんぐでんになったマスターに肩を貸して、何度も送り届けたことのあるその木造二階建てアパートは、平日の昼間でも賑わう商店街からたった一本入っただけで人気のなくなる路地裏に、いつ取り壊されてもおかしくないといった風情で建っている。築五十年は越えているだろう、ある意味で歴史的建造物と言えた。外壁を蔦が這いあがり、裏に回れば隣のマンションとの間に日の当たらない湿った黒い土が剥き出しで、それぞれの窓に物干しハンガーにだらしなくぶら下がった下着類が隙間風にそよいでいる。

 錆びた外階段を駆け上り、インターフォンどころかチャイムもないので、扉をノックするが、返事はないし、鍵がかかっている。ばらばらに砕けてしまいそうな扉をドンドン叩き、今にももげそうな真鍮のノブをガチャガチャ回す。「おーい! おーい!」耳を澄ませてもしんとしている。表札も出ていないのだから、部屋を間違えたのかと不安になる……が、電話すると呼び出し音が中からかすかに聞こえてくる。

「おーい! おーい! 大丈夫かあ?」携帯と同時に中に向かって怒鳴り声を上げる。間に合わなかった、既に事切れたか。目の前の木製ドアが、「この店舗は契約終了に付き閉鎖しました」と通告の張り紙があった《アルバトロス》の扉と重なる。

 狭い外廊下の塗装の剥げた手すりまで後退して、はずみをつけて扉に体当たりすると、ミシリと罅が入る音がしたが、無傷のままだった。刑事ドラマのようにはいかないものだ。それでも、踵で何度か蹴ると、本体がそのままガタリと枠から外れた。スチール製ならこうはいかない。

「ドアを蹴破って中に入ると……」と倉木は続けた。「異臭が鼻をついた。ぼくが目にしたものは……弁当殻や菓子袋、空き缶、丸めた紙屑、チラシ、DM、ティッシュ、ぼろ切れのような衣類などで足の踏み場もない六畳一間の万年床に横たわるマスターだった。所狭しと並べられた酒瓶やペットボトルに溜めた尿が腐って、蠅がたかっていた。その周囲を二三匹ぶんぶんうなっているというのじゃなくて、飲み口をびっしりと埋め尽くし、静かに翅を休めているんだ。それがみんな、まるまると肥え太っている。救急車を呼べない事情ってこれか、でもぼくのことは呼べるんかい。慌てていたからではなくて、あまりに汚いから土足のまま上がって声をかけると、頭を反対側にしたマスターが意外としっかりした声で、動けねえんだ、助けてくれと言った。びっくりしたように見開いた片目はどろりと濁り、もう片方は閉じていた。布団から泥棒ヒゲの顔だけを突き出した彼を見下ろす格好で固まったまま、正直なところ無理だと思った。もう手遅れだ、助けることはできない、遅すぎる。遺体が腐乱するまで死後何週間も発見されない孤独死の話を聞いたことがあるでしょう、布団から床まで体液が浸透し、凄まじい腐臭でようやく気づかれるような。放っておけばそうなることだろう。このまま放置しようか、それが相応しい最期かもしれない、一瞬そんな突き放したことを考えてしまった。救急車を呼びますね、とぼくは言った。いや、金がねえんだ。大丈夫、保護を受けているでしょう。救急車が来るまで、ぼくは外に出て何度も深呼吸せざるを得なかった。その部屋を見たときの、救急隊員の顔といったら! やがて病人は担架で運ばれていき、きっとそれが今生の別れとなるだろうと予感がしたよ。さようなら、マスターてなもんさ。看護師の妹さんとは連絡をとったから、入所している介護施設は知っているんだ。もし面会に行きたいなら、教えるけど……もう会ってもあまり意味がないかもしれないね」

 私たちは皆、一様に口がきけなくなったように黙り込む。互いに見交わし、しばらくは誰も返答する者はいなかった。

 倉木は澄み切ったコップ酒をきゅーっと一息に飲み干すと立ち上がり、「それじゃ」と世にも晴れ晴れとした表情を浮かべ、片手を上げてひらひらさせた。そうして、これもまた今生の別れとなったのだろう。少なくとも、そのような予感がしたものである。

 それからも当たり前に時は過ぎて、私たちの喉元を大量のアルコールが流れ続けては胃腸に吸収されていった。マスターや倉木がいつの間にか消えていったように、仲間も一人、二人と減っていった、癌、脳梗塞、肝硬変、貧窮などにより。あるとき、ふと周囲を見回して、目が覚めたかのように、いや、酔いが覚めるかのように気づくのである、おや誰も彼もいなくなっちまったよと。ああ、とても素面ではやってられねえ。どのみち、呑んでなければ何をして良いかすらわからないような私たちなのだから、暗くなる前に、日のあるうちに、まだまだ肝臓も肺もきれいな奴らののさばり始めた街へと繰り出す。果たして、私たちは生き残ったと言えるのか。

 乾杯! いや、献杯といった方が相応しい。

(了)

連作『無為のひと』完結

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