内輪での正解は世間の正解ではありません。
今日は少し私の専門分野について話そうと思います。私の専門分野の介護と言うのは、どうもそれぞれの考え方というのがあり、その自分の考え方を中心として物事を話して行くので、時にはぶつかることもあります。しかしながら時々はきちんと私見を述べないといけないですし、私見と言っても、
真剣に考えなければいけないものだと思っています。
私達、介護業界において、よく使われる言葉と言うのがアットホームです。どうもこの言葉に取り憑かれてるくらいアットホームという言葉にこだわります。アットホームな雰囲気、アットホームな対応。
とりあえずアットホームを使っていればなんとかなるという風潮が強いのではないのかなと思ってます。そもそもアットホームという意味を分かっていて使ってるのかという疑問符も付くのですが、アットホームを辞書で調べると、
「家にいる時のようにくつろいださま」という意味で使われます。
簡単に言いますと雰囲気のことを指している訳です。この解釈の仕方がものすごく拡大解釈をされているのですが、何を拡大解釈をしてるのかと言いますと、
アットホームが言葉遣いを崩すになってしまってるんです。
もちろん全員に対して当てはまるわけではないのですが、多数と言っていいくらいは勘違いしてしまっており、それを堂々と正当化してしまうわけです。その正当化の顕著な例が、
年上の方に対しての言葉遣いになります。
私達は家族でもなんでもない、年上のお客様を相手にしています。人生の大先輩に対して、その大先輩のお困りごとに対して、私達がお手伝いをさせていただくことでサービスが発生しているサービス業なわけです。その大前提は崩してはいけないわけです。
ですが、アットホームという言葉を勘違いして捉えると、敬語を使ったり、名字でお呼びすることに対しての、
よそよそしくなる。信頼関係が成立してるから、自分は敬語を使わなくていいという、訳も分からぬ理不尽な言い訳により、言葉遣いが崩れるのを正当化するわけです。
やがて利用者だけではなく、職員同士でも言葉が崩れだし、私語が溢れる、ニックネームが飛び交う。それに対して誰も指摘はしない。挙句の果てには、自分の職場を「チームワークの良い、アットホームな職場」という、
キャッチフレーズまで付けてしまうわけです。
チームワークは馴れ合いではありません。悪いことをしっかりと注意ができ、それが受け入れられると言うのがチームワークなわけです。そんな内輪での答えに対して勝手に決めつけて、それを正当化しても、
第三者は同じ評価はしないわけです。
自己評価で溺れることなく、必ず第三者が評価すると言うことを頭に入れとかなければならず、もし自分の家族を施設に入れなければいけなくなる現状に陥った時に、
自分の親が下の名前で呼ばれることに、何も抵抗がないのかと考えてみてください。
そこに何も抵抗を示さないのであれば、ハッキリと言わせてもらえば、家族に尊厳を持っていないのと同じです。
もう一度良く考えてみましょう。これをきちんとやっていかなければ、
社会的な認知なんてされないと思います。
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