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ホメオスタシス(掌編・空)

 海を叩き割ってもその断面が硬直したまま維持されることはなく、即座に角から融けだして波のかたちになり地面へと向かってなだれ落ちてゆくわけだが、では空はどうなるのだろうか?
 わたしは映画のシーンを思い浮かべながら顎を上げて、すこし苦しくなってきたところで、さらに首を曝すようにしてやや過剰に仰向いた。口を閉じることが難しく、伸びた顎下の筋の痛みを感じながら大きくなる呼吸の音に意識を向ける。さっきまでの鼻づまりも抜けてきて、気管支と喉と口、鼻と耳、涙点まで吹き抜ける冷たい風を感じ、自分がただの筒になったような気分になる。
 焼却して煙が空に昇るからか、それとも旧くからの宗教的イメージで極楽浄土に昇っていけるからなのか、とにかく死と空とを関連づけてしまう習性は何なのか。青々とした空はところどころ靄のような雲が控えめに伸びていて、それがだいたい自分からはどれくらい離れているものなのか、天井がどこなのか、頑張って探ってもどうしても見当がつかない。
 首のうしろと肩の痛みが強くなってきた。唐突に吐き気が襲ってきて、不可抗力といった心持ちで顔を戻す。うっすら浮かんだ涙はそのままに瞼を閉じる。ほっと息を吐き、赤いのか白いのかわからない景色でいまも眩しいが、それでも焼かれた眼球という器官が物理的に癒やされているのがよくわかる。
「○○、死んじゃったの?」
「淋しいよねえ、○○の声、聴けないねえ」
 姪っ子が遠慮のないあっけらかんとした声で叫んでいる。義姉もワントーン高めで淋しそうな声を造り、首を傾げるようにして子どもを覗き込んでいる。わたしは連日の激務の疲れで付き合いきれず、一分程度でギブアップしたブランコを降りてベンチで呆けていたが、刺さるように耳に入ってくるそんな声にも、まあいいか――と胸中で意味不明な受け流しをして黙っている。
 かつては若さだったといえばしょうがない。ただの体感にすぎないのかもしれない。それにしたって、最近は死ぬ人が多すぎやしないか。喪に服す間もなく、しんみりする間もなく、次から次へと、だ。なんとなく自分の世界を、端からどんどん包丁で削いでいかれているような気がする。
 四日前、叔父が心筋梗塞で亡くなった。田舎の葬式は混み合っている都会と違い、日が早い。どうしても都合がつかず参列することはできなかった。三日経って昨日、長年○○の声を演じていた声優の訃報をテレビで聞いた。このところ尋常じゃない、と言いたくなるほど、著名人の訃音を聞く。会ったことがなくとも、知らぬ間に世話になった人たちばかりだ。
 姪っ子が○○にまつわる曲を歌い出した。調子の外れた歌を精一杯歌いながらブランコをこいでいる。その背を押してやりながら、義姉も合いの手を入れてやる。
 いま、目の前で、この二人が死んだらどうなるだろう。わたしはこんなに呆けているわけがなく、大慌てで、そしてむこう一年、いや何年も沈んで落ちこむはずだ。
 反動で高みにいた姪っ子が、いきなりブランコから飛び降りたのに焦って立ち上がる。何事もなかったおかげで、義姉とわたしが揃って、危なーい! と叫んで非難の声を浴びせるだけで済んだが、姪っ子はちっとも臆せずわたしの脚に突進する。
 わたしを見上げる頬の赤さは、搗きたてから半日経った正月の餅のように薄い膜の突っ張りと細い罅が浮いていて、人差し指でそれを軽く擦ると、彼女はにんまりと笑って遊具の方へと走り出した。
 彼女の興味はすでに○○にはなく、義姉の意識も遊具へ向かう娘のもので、わたしも一瞬、正月の餅を思い浮かべて死にまつわる云々を忘れていた。
 そういうことだ。
 結局、自分に生々しく関与しなければ、誰かにとっての衝撃も、淋しいねと悲しい声を造ってみる程度のものでしかない。
 しかし程度の差はあれ、淋しく悲しいのは紛れもなく事実なのだ。だが人々が誰かの死に振り返って眉を下げ、あるいはすこしの涙をし、やがて顔を戻して前を向いて歩いてゆく――わたしには、その顔を戻すまでの間が、あまりに短くなってきたように感じられてしょうがない。認めたくないが、誰もが密かに慣れてきているのではないか。そして何より嫌なのは、そういう人々を見て打ちのめされていた自分も、絶対にどこかで慣れてきているということだ。
 かつて大事な人を亡くしたとき、世界が破滅することを夢想した。無関心でいた人も、ちょっと振り返り、R.I.P.などとどこか得意げに呟いて、下手をすれば蝋燭を持って集ったりする。まるで祭だった。世界はこの人を喪った、それを口実に、他人と同じでないと不安な人々が一体感を味わうためのイベントだった。それが終われば彼らは何事もなかったかのように明日から笑って生きるのだ。わたしはあのとき、わたしが喪を認められぬ間に、ぬけぬけと喪を祝いに集った人々のいるこの世界を、空を叩き割ってやりたいと思ったのだ。
 しかしすべては恒常性が機能する。振り返った人々が前を向き始めるのも、叩き割られた海が急いで空白へ流れ込むのも、わたしだって。だからたぶん、空だって――。
 ぼんやりとしていたところに、ぎゃんと泣き声が聞こえた。見ると姪っ子が、勢いがつきすぎて、滑り台から放り出されて膝を打ったようだった。
「ああ、ほらほら」
 義姉が中腰の大股で近づいてゆく。わたしも傍にいって顔をくしゃくしゃにして透明の涙をこぼして喚きながら、見てみろといわんばかりに伸ばされた膝を覗きこむ。
「ああ、血が出ちゃってるよ、もう」
 疵には触れぬように砂利を払い、抱き起こそうと手を伸ばす。しかしママがいいと叫んで泣きながら義姉を睨みつける姪っ子に、こういうときでもしっかりと痛み以外のことにも意識が向くのだとすこしばかり感心をする。
 疵からは透明の液体がしみ出して、数分も経てば乾きはじめた。早ければ、夜にはかさぶたになるかもしれない。
 恒常性、おおいに結構。なぜなら生きていく痛みが減るからだ。それが早くなれば早くなるほど、いいに決まっているじゃないか。機嫌が直れば、ねえねにおんぶしてもらうと言ってちゃっかり背中に乗っかってきた姪っ子の明るい調子の○○のテーマソングを聴きながら、結構結構と頭のなかで繰り返す。その結構結構が、だんだんと投げやりになってきたことを自覚する。
 前方の空の奥がうっすらと朱色になってきた。
 本当は大切にしたい痛みもあるのだが、だが生きていくためにはそれでいい。実際には鈍麻しているだけなのかもしれなくても、それでもおおいに結構だ。穴だらけでも気づかなければ、ないことといっしょだ。形がいつまで、もつかはわからないが。
「ねえね、もっとはやく」
 両脚をぶらぶらさせる振動がつらいが、振り返ってこらと叱って笑い、背中の熱いほどの重みを抱え直して、わたしは歩く。


二〇一七年十一月二十六日


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