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教員だった私が反面教師にしたもの①

教員が教員を反面教師にするという何だが滑稽な感じですが、
教員も完璧な人間ではないので
私が他の教員を反面教師として自戒する場合もあれば、
私の無意識な行動を他の教員が反面教師とする場合もあります。

※後者の場合、いくら私が至らない部分があったとしても周囲から
 指摘されない限り、私が反面教師となっている事実を感知できないため、 
 前者の内容が中心になってしまうことをご了承ください。

20数年前、私が初めて教員になったときのことです。
この1年は初任者として一人前の教員になるために
たくさんの研修を受けます。

その一番最初の研修で、
『君たちは出勤したら、まず出勤簿に出勤印を押すことから始めなさい』
と教えられました。

初々しかった私はその教えを真面目に守り、
毎朝、職員室に到着したら、すぐに出勤印を押していました。
朝の慌ただしい状況の中で行うため、
正直、面倒くさいという気持ちが強かったんですが、
朝のルーティンの1つになりました。

その生活リズムに慣れてきたころ、
ある教員が出勤印を数日分、数週間分まとめて押印している場面を
目撃しました。
よくよく観察してみると、
その教員以外にも、毎朝、出勤印を押さず、
まとめて押印している者が数人いたため、

(あっ、毎朝、押さなくてもまとめて押せばいいんだ!)

と思い、その行為が容認されているのだと認識ました。

面倒くさいと思っていた私は、渡りに船とばかりに、
その教員たちのマネをして毎朝、押印することをやめました。

数日後、教頭が私を叱責しました。

・毎朝、出勤印を押すことが義務であること
・出勤簿を整理する事務職員に迷惑をかけてしまうこと
 (事務処理が滞ってしまうこと)

という2つの理由に挙げ、毎朝、出勤印を押すよう改善を迫られました。

そのとき、初任者ごときの私は反論しませんでしたが、
心の中は納得が半分、憤慨が半分を占めていました。

納得したのは2つ目の理由です。
その学校の職員は大半が教員で、
たった1人の事務職員が一手に学校事務を引き受けていました。
私のような教員の代わりはいくらでもいますが、
学校事務ができる人材はその事務職員の方1人しかいません。
給与、出張旅費、諸帳簿の管理、備品管理など
多岐にわたる事務関係の業務をたった1人で行っている事務職員の方に
迷惑をかけることは私の本意ではないので、納得せざるをえませんでした。

出勤印を押していない教員がいる場合、事務職員の方は
その教員に押してもらうように伝えなければならないという手間が増え、
伝えてもその教員が押印しない限り、その間の仕事が滞ってしまいます。
その事実を理解したとき、私は大いに反省しました。

それならば、です
なぜ教頭は「私だけ」を指導したのかと憤慨しました。
事務職員の方への迷惑を考えるのであれば、
私と同様にまとめて押印している教員たちも指導するべきです。

しかし、そのような様子はなく、
私への叱責以後も、その教員たちはまとめて押印していました。

事務職員の方に迷惑をかけていい教員と迷惑をかけてはいけない教員を
差別しているのではないかと、教頭に対して疑念を抱いたため、
叱責の内容は正論だったんですが

(初任者のくせに…)

と言われているように聞こえ、
ただ感情的なっているようにしか思えませんでした。

この出来事で私が反面教師としたことは2つ

(1)事務職員の方に迷惑をかけるような教員にはならないこと
(2)同僚や生徒に対して、公平性、平等性を意識した言動すること

です。

周囲の教員がどうであれ、事務職員の方が快適に仕事ができるように、
出勤印だけでなく、事務職員の方の依頼を最優先で行うことを誓いました。

やるべきことをやって二度と文句を言わせないという意地を張っていた
という理由も少なからずあります。

実際、私は退職するまで毎朝、出勤印を押し続けました。
そして、自分が叱責された経験を年下の教員へ伝えることで、
自分の失敗に対する償いとしました。

ただし、2つ目の反面教師については慎重に考える必要があります。
当時、この教頭は相手によって態度を変えていると思い、
かなり悔しいと感じてしまいましたが、
いざ自分が指導する立場になると公平性のある言動をとり続けることは、
かなり難しいことだと思うようになりました。

「真面目に生活している生徒の失敗」
         と
「不真面目に生活している生徒の失敗」の場合、
同じ失敗をしても
後者の生徒をより厳しく指導することが公平性であると
私が判断しても、周囲から見れば、差別していると捉えかねません。

また、「感情的になりやすい人物」と「温厚な人物」に対応する場合、
ソフトな対応、ハードな対応を無意識に区別してしまうかもしれません。
このような態度をとってしまった場合の私の言動は
誰かの反面教師になっていると思われます。

そのように考えると、もしかしたら当時の教頭も、
陰で私以外の教員を指導しており、
対応に苦慮していたのかもしれませんし、
若いうちに矯正できるように考え、
あえて憎まれて役を買ってでも私を叱責したのかもしれないと
半分、思うようになりました。

自分自身もふくめて、どこにでも反面教師はいます。
だから一方的に相手が悪く、自分が良いと
完全に立場を分けてしまうのではなく、
反面教師と思える事柄があれば成長の糧にし、それとともに
自分自身が誰かの反面教師になっているのではないかと自省することが
重要であると実感できる良い経験となりました。

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