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みんなちがって みんないい

10数年以上前のことなので記憶は定かではなく、
人権だったか、道徳だったか忘れましたが、
金子みすゞさんの有名な詩「私と小鳥と鈴と」の中にあるフレーズ

【みんなちがって みんないい】

を題材にした小学校の先生の研究授業に参加しました。

当時若手だった私は、
いい言葉だなという感想をもち、
和気あいあいとした中で授業が行われていたので、
その授業に対してなんら批判的な感覚はありませんでした。

そもそも、

人はみんな違っていて同じ人はいないことを理解し、
違いを認め、互いを尊重する姿勢を育むこと

を授業のねらいとしており、

子どもたちが意見や感想を述べ、
どんな内容であってもその良さを認め合おうとする雰囲気が
醸成されていたので、私が意見を述べる隙はないと思いました。

しかし、
その後の研究協議(研究授業の内容をもとに、今後に向けてより良い授業を考察するための協議)では、
集まった先生方が様々な意見を出し合い、
白熱した議論になったので驚きました。

指導案に対する質問や意見とか
教材に対する修正案とか
板書に対する感想や意見とか
発問の内容やその順番に対する意見とか
「あのときの○○さんの考えはもっと深められたと思う」など
子どもの反応に対するアプローチの仕方とか

子どもたちのために真剣に議論し、
より良い教育を目指す先生方の熱意に頭が下がる思いでした。

若手だった私は尊敬の念を込めて様々な意見に耳を傾けていましたが、
話を聞いている途中、
胸の奥にひっかかるものが出てくるようになりました。

それは

「みんなちがって みんないい」

をねらいとして目指しているなら
教える側の教師も互いを認める立場をとって、

「授業ちがって、みんないい」

とするべきではないのかと考え、

(この研究協議って必要なのだろうか?)

と思ってしまったんです。

そういうことではなく、
純粋に授業スキルの向上や
様々なアプローチの仕方を検討するための研究協議であると
頭ではわかっていたのですが、

若気の至りなのか、特に否定的な意見が出たときに、

(今日行った授業者の授業を認めず、否定している教師が、
 同じ題材で子どもたちに互いを認め合うように指導するのか?)

という矛盾が頭の中で渦巻き、
研究協議の後半はその矛盾と自問するのみに終わってしまいました。
(今では口に出さなくて良かったと、過去の自分を褒めたい気分です)

それがきっかけなのかはわかりませんが、それ以降
道徳や人権の授業に対して
いろいろな角度から考えるようになったと思います。

「みんなちがって みんないい」の授業の場合だと
授業のねらいであった

人はみんな違っていて同じ人はいないことを理解し、
違いを認め、互いを尊重する姿勢を育むこと

だけでは不十分であると考え、

無条件で認めるのではなく、
 相手を理解しようとする努力や姿勢が大切であること
無条件で認めてもらうのではなく、
 認めてもらうよう努力することが大切であること
・誰もが好き、嫌いの感情があるため、
 すべてを認める、認められるというのは不可能であること
・認められないからといって、相手を攻撃したり、対立したり、
 無理矢理修正させたりという行為を選択しないこと
・認めることと、許容することは別であることを理解すること

など、

認め合うことのみが正義で、認めないことが悪のような対立構造ではなく、

双方向の視点が必要で
歩み寄ることのできる人間関係の構築を目指すべきではないかと
考えるようになりました。
それに、この視点ならば研究協議を行うことに何ら疑問はありません。

ただ、たった50分の授業でこれらのねらいを詰め込むことは不可能で、
授業だけでは本当の意味での

「みんなちがってみんないい」

という人権感覚を養うのは難しいと思います。

日々の生活の中でその都度その都度、
教師も子どもたちも互いに向き合って、

自分が自分がではなく、
双方向の視点をもって

考え続けなければならないと感じるようになりました。

人権感覚が求められる昨今において、
教育の力で「みんなちがって みんないい」世界を実現し、

まずはネット上で心無いコメント投稿がなくなることを
心から願っています。


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