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折れてもいいじゃん

■2018/11/11 ポッキーの日


 ――届かない。

 四十二・一九五キロ。走り抜いた先には、ゴールテープなどなかった。記録は、二時間二十一分七秒。一位の選手がゴールテープを切ってから、十五分近く経っていた。オリンピックへの参加標準記録にすら到達しないタイムに、俺は言葉を失った。

 俺は中学で陸上競技を始め、大学の時には箱根を走り、区間賞も獲った。三年前、鳴り物入りでマラソンに転向したのだが、そこから結果がついて来なくなった。当初はマスコミの取材も殺到したが、記録が出ないと見るや、世間の手のひら返しは早かった。
 所属している会社の陸上部は、今や存続の危機だ。このままだとスポンサー契約も解除されてしまう。そうなったら、家族を養いながらマラソンを続けることは難しくなる。
 苦しい練習をどれだけ続けても、入念にレース運びを考え抜いても、結果は思い通りにはならない。前を行く選手の背中は近づいてこないし、ゴールテープは見えてこない。

「な、眉間にしわが寄ってんで」

 急に声をかけられて、俺は我に返った。隣には幼い娘を抱く妻が立っている。レース後の久しぶりのオフの日、大阪にある妻の実家に帰省する途中、コンビニに寄ったのだ。車の中で娘がぐずるので菓子でも買い足すつもりだったのだが、いつの間にか意識が他のところに飛んでしまっていた。

「ああ、ごめん」
「なにがええやろな、お菓子」

 ぐずっていた張本人は、呑気に母親の腕の中ですやすやと眠っている。

「なんでもいいんじゃない?」
「あ、これええな。懐かしい」

 妻がつまみ上げたのは、赤い箱のチョコ菓子だ。「Pocky」と描かれたパッケージは、もちろん俺もよく知っている。

「なんか、珍しいな」
「今日、ポッキーの日やからね」

 十一月十一日。なるほど、ポッキーが四本並んでいる画が頭に浮かぶ。

「なんかさ、イヤなんだよな」
「なにが?」
「ポッキー。すぐに折れちゃうだろ」

 ポッキーという商品名は、チョコのついたプレッツェルが「ポキン」と折れる音から名づけられたのだという。アスリートとしては骨折をイメージさせるし、心が折れることにも通じる気がして、いい気がしない。

 妻が、ポッキーを片手に、じっと俺を見つめる。その目の力が思いのほか強くて、俺は思わずたじろいだ。

「ええんちゃう、折れたって」

 たまにはな。そう言い残して妻は微笑み、レジに向かっていった。

 車に戻り、眠った娘をチャイルドシートに括りつけると、妻が助手席に座った。車が走り出すと、俺の口にポッキーがねじ込まれた。

「久しぶりに食べたんやけど、やっぱ美味しいな。普通のポッキー食べたん、何年ぶりやろ」

 俺の口の中で、プレッツェルがポキンと軽い音を立て、チョコレートの甘い香りを漂わせた。何万本、何億本、誰かの口の中でポキンと折れても、俺が生まれる前からこの菓子はずっと走り続けている。

「なあ、帰る前にひっかけ橋寄ってこな」
「え、なんで」

 大阪・ミナミの商店街、道頓堀川にかかる戎橋。通称・ひっかけ橋。橋を渡ると、両手を挙げて誇らしげにゴールテープを切る男が見えてくる。

「イメージトレーニングをしろって?」

 妻が笑いながら、また一本、俺の口にポッキーをねじ込んだ。

小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp