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消える

今死んだらどうなるだろうと、最近考えることが多くなってきた。
夜、コンビニの袋を下げて、ふらふらと近所を歩いているとき。
最寄駅の構内を歩いていて、改札を通り抜けたりするとき。
電車に揺られながら、まだ降り立ったことのない、東京の見知らぬ町をただぼーっとながめているとき。
今死んだらどうなるだろうと、ふっと考えることがある。

いったいあの人はどう思うだろうか。悲しむだろうか。
わたしが居なくなる事で、あるひとつの、無くなる自分の未来を悲しむだろうか、と。
約束が果たされなかったと、わたしを恨むだろうかと。
あの人は、何の恩返しもしない不義理な自分を、どう思うだろうか。
そんなふうに考えるようになったということは、自分はもうひとりでは生きていない、ということなのだろうか。
親子には親子の、夫婦には夫婦の、友人や仕事の関係にはその関係なりの、つながりがあり、最低限果たさなければならない義務や役割がやはりあるだろうか。それらがわたしの死によって断ち切られ、わたしがその後もいたことであったはずのものが、無くなってしまう。そこにやはり空白のようなものは、出来るのだろうかと。

わたしはこの世からしゅっと消えてしまう。

その空白を、気づかない人もいれば、気づいても何とも思わない人もいる。わたしが消えたことで空いた空白を、直ぐ何かで埋める人もいるだろう。代わりの人間がいれば、そもそも空白なども出来もしないだろう。消えたことも、数時間、あるいは数分で忘れられ、誰もそこからわたしのことなど思い出しもしない。

どうなるのか、消えたあとも、それだけは確かめてみたい気もする。たとえばそれが可能だったとして、幽霊となって、自分と関わりがあった人を、そのご何も関わることもできず、ただそばで見ているというのは、どういう気持ちがするのだろう。

何かで聞いたか読んだかで、昔のアメリカの小説に、そんな話があったらしい。まだ読んではいないのだが、確か『ウェイクフィールド』という名前の小説だったような気がする。男(ウェイクフィールド?)が、妻の前から突然消え、そっと自分の家の隣に部屋を借り、二十年ほど、妻の様子を窺いつづける、というような話らしい。既にそのような話(実話か創作)があるということは、ふとそういう思いにとらわれ、そういう想像をしてしまうということが、誰にでもある、ということなのかもしれない。

でもなぜそういうことがしたいのだろう。人は案外薄情だ、ということを知り、そしてそれに少し傷つきつつも、そういうものだと受け入れ、救われたいのだろうか。自分など生きても死んでも同じだと思って、生きていきたい、という願望なのだろうか。でも実際には、それをしてみないと、実際にそうなってみないと、どんな感じがするのか、自分がどうなるのかはわからない。なってみないと何もわからない。死後の世界などないと思うが、死んだことのない現世の人間には、何もわからない。

自分が死んで、愛しているといっていたあの人が、別の男や女の性器を舐めたり、舐められたりしているのを横に立って見ているのはどんな気分なのだろう。もう自分のことなど忘れ、別の人のことで頭をいっぱいにしている様子を、ただじっと見ているだけの気持ちというのは。あるいはもう自分がいないのを当然として、愛する人や家族が、何事もなく生きている姿を見るというのは。人はよく、死んでまで生きている人を縛りたくない、と言う。夫婦や恋人などでも自分が死んだら、相手には自分を忘れて幸せになって欲しいと言う。それは本当なんだろうか、体験しないから言える、きれいごとなんだろうか。

あるいはそんなこととも関係なく、すべてを断ち切って、リセットして消える、というのはどういう感じなのだろう。

昔勤めていた深夜のコンビニで、一緒に働いていた人間がいた。50代ぐらいの男で、本人が語るには、酒に酔い、道路を車で逆走し、何人かの人間の命を奪ったそうである。昔はソープランドなども経営し、おそらく家族などもいたようなことを言っていた。
しかし刑務所から出所して?遠く離れた県の、深夜のコンビニで働いているということは、事故の前をすべてリセットして、あるいは家族に縁などを切られ、リセットせざるをえず、そこで働いて日々を過ごしていた、ということなのだろうか。
あとでわかったことだが、その人は店の商品を万引きし、店の金も盗み、警察に捕まった。その店の店長から聞いた話だが、年齢も、名前も、応募の時に履歴書に書いてあったことは全部嘘であったらしく、本人は50代後半だと言っていたが、本当は70近い歳であったらしい。人を殺してしまって、というのも嘘かも知れないが、なぜかそのことは本当のことであったような気もする。
何故か、その人と最後になったとき、深夜の仕事が終わって朝日の中、コンビニ前で、じゃあな、と言って笑ったその人の笑顔をいまでも憶えている。電車に揺られながら見知らぬ東京の町を眺めているとき、なぜかその人のことを思い出し、その人のように、あの見える街角を歩いている自分、あの見える店などで全く別の人間となって働いている自分を思い浮かべることがある。桜並木が見えたりすると、何ものとも関係なく、自分でもなく生きて桜を眺め、春の風に吹かれているのは、いったいどういう気持ちがするのだろうと、思う。

この場所に書かれたものは、日付が付いて、ネットに繋がりさえすれば誰でも見られる場所に、永遠なのかどうなのかは分からないが、置いてある。
望むなら、ある年のある日のわたしはどんなことを言っていたか、いつでも確認することが出来る。たとえば40歳のわたしに、会うことが出来る。もう自分でも忘れた何かに、また出会うこともあるかもしれない。

消えたわたしを見て、そのときわたしは、あるいは誰かは、何を思うのだろうか。

https://twitter.com/kaorubunko