うつ病から復帰した中年がバイト先をクビになる話。

 社員は全員帰った。
 店は九時を過ぎたころから、いつものように訪れる客が多くなってきた。
 飲み会やコンパでもあったのか、周辺の居酒屋などでそれまで飲んでいたらしいサラリーマンや大学生などのグループが、何組か同時にやって来て、あっという間に人がカウンター前に列を作って並んでいる状態になってしまった。
 今日のような週末の夜に、飲んだあとグループでネットカフェに来るような客は、その内一人か二人が店の会員で、話の流れであそこに寄ってかないか、となって、この店にやって来る場合が多い。
 店に会員制がなければ、もっとすんなりと入店が進むのだが、そのような連れ合いの、登録のない残りの人にも、店の会員カードをその場で作って貰わなくては入店はさせられない。犯罪防止目的で、警察にネットカフェ全てはそう命じられているからだ。
 言う通りにしなければ、置き引きなどの犯罪が店で起こると、もうその店は即営業停止にされてしまう。そのネットカフェチェーン自体が営業停止ということもある。大手のネットカフェチェーンは、そんなこともあってか、今ではほとんどが警察の天下りも受け入れていると、以前社員に聞いたことがある。
 だからどんなに入店がスムーズ進まなかろうと、まずはじめは会員登録をして貰わなくてはならない。他にカウンターにやってきた登録済みの利用者の入退店とも重なって、受付カウンター前がこれまでないくらいに混み合い、店員は誰も手が離せずに忙しい、という状態になっていた。
 僕も新規で会員となった客に、カウンター前で呼び止められ、店のサービスについて説明をしていたのだが、自分の方に誰かが近づいて来る気配がして、「オイオイいいか」、と話している最中に声を掛けて割り込んでくるので、僕は仕方なく声の方を横目で見たのだった。 
男が一人立っていた。
 直接応対したことはないが、よく店に来ている、顔を見知っている三十代の男だった。
 店のパソコンメンテナンスを担当している、昼のアルバイトスタッフの一人が、店の用事で夜勤の時間帯まで残っていたとき、あの人ウチにも来てるんだ、と男を見かけて少しウンザリしたように言ったことがあり、それ以来顔を憶えている客だった。
 ゲーム好きのそのスタッフが、バイトの終了後に店の近くのゲームセンターに行くと、競馬のメダルゲームのコーナーなどに、ここは自分のなわばりだ、とでも言っているかのような態度で、いつもだいたい男はいるらしい。
 この店にも、数席しかないがゲームコーナーがある。入り口のエレベーター横に、棚や観葉植物がそれとなく置かれて、他の客の目に入りにくくされた、麻雀ゲームのコーナーがあるのだ。
 その麻雀ゲームは人気があり、近くのゲームセンターが閉まる時間帯になると、そのゲーム機目当てに毎日のように来る客がいて、男はその内の一人だった。そのゲーム目当ての客は柄が悪くて、アルバイトスタッフは麻雀ゲームコーナーなど無くして欲しいのだが、麻雀ゲーム機の客は軽食などをよく注文するから、それを当て込んで社員がゲーム機を置かせているのだ。
「オレはここの常連だよな、お前もオレの顔知ってんだろ、いちいち並んで待ってんのは面倒だろ。な、だから先に入れさせろよ。オレはもうカードを前に作ってるから会員なんだよ、後でお前にでもそのカードを渡しゃあいいんだろ」と男は僕に向かって言う。
 男の言うことが聞こえていた、周りにいる客の、何言ってんだこいつは、という空気が伝わってくる。誰も僕と男の方をはっきりとは見ないが、意識がこちらに向いているのを感じる。
 入り口エレベーター横の、その麻雀ゲームコーナーだけを利用する場合は、店の中には入らないので、そこの客は、別に入店手続きをしなくてもいいようになっている。
 いつも男はゲームコーナーばかりを利用していて、ネットカフェの方に入ろうとはしないのに、なんでこういうときに限って、わざわざ無理なことを言ってくるのか。
 どうするべきか。男は何かここに来るまでにイラつくことでもあったのか、さらに店が混んでいたので、そのイラつきも増しているのか、機嫌が少し悪いのがわかる。
 この男がしたいようにさせた方が、面倒なことが起こる可能性はないが、そうすれば、今ここにいる他の客は二度とこの店には来ないかもしれず、来たとしても、今後店にいい印象は持たないだろう。と、どうするか迷っていたら、男はそのまま前に進んで行こうとした。
「すみませんお客様」と僕は男を呼び止めた。
 何かあるのか、という感じで男は僕を見た。
 落ちるとわかっている橋をそれでも渡るような心持が僕はした。
「本当にいつもご利用ありがとうございますお客様。ただ、本当に申し訳ないのですが、他の全員のお客様、ご不快な思いをさせてしまって本当に申し訳ないんですが、他の皆様も入店手続きをされてますので、本当にお世話になっているお客様にはたいへん恐縮なのですが、ここは他の皆様と同じように、何とか先に手続きを済ませてはいただけませんでしょうか。本当にお世話になってるのに、こちらの都合で恐縮なのですが。お時間取らせてしまって申し訳ございませんが、どうか本当に申し訳ないですけどよろしくお願い致します」と僕は頭を下げて言った。
絶対に男を軽く見てはいない、ということだけは伝わるようにと、祈るような気持ちで、僕は頭下げて言った。
 しかし、そうしてもまだ、何か空気が上手く治まっていないような、男は納得してはくれてない、という感じで、僕は男の顔を正視しづらかった。
「本当に申し訳ないです。すみません」ともういちど僕は頭を下げた。
「いいですか?」
 と、終わったんならいいですかね、という感じで、話を途中で男に阻まれていた客が、横から僕に言った。
 僕はもう一度男に頭を下げて、その客の方に向き直った。
 客にまた訊かれたことに答えつつも、男のことが気になった。視界の端に、男の脚が見える。男はその場所から動こうとはしていなかった。この客との話が終わったら、何か僕に対してするつもりのような気がした。
 ずっとこの客とのやり取りがつづけばいいのに、と僕は思ったが、周りにいる客も、どこか、少しずつ僕のいる場所から距離を取り始め、こちらには無関心を装いだしていて、話している客も、さすがに不穏な空気を感じたのか、途端に話を切り上げ始めて、直ぐに話が終わってしまった。もう、逃げるようにこの場から立ち去ろう、という感じで、僕も用事で忙しい振りをして、同時にこの場から立ち去ろうかとも思ったが、
「オイ」
と男に声を掛けられて、やっぱり来た、と思ったと同時に、胸の辺りに何かがぶつかるのを僕は感じた。
 次の瞬間、床に何かが落ちた音がした。見ると、床にお茶の500ミリペットボトルが転がっていた。周りの人たちも音に驚いて、こちらに視線が集まって来るのを感じる。僕は男に、ペットボトルを投げつけられたようだった。
「オイ」
と男は言う。
 男の方に僕は向いた。
 改めて意識して見ると、男はメガネを掛け、口ひげを生やしていた。Tシャツの上に革のジャンバーを着ていて、チノパンを穿いている。本職のやくざという感じではないが、掛けている伊達らしいメガネのデザインが、そういう類の人間がカッコいいと、どこか思っていそうであるのを感じさせる。
 もう手遅れだが、係わり合いになってはならない人間だと、わかるのはなぜだろう。いきなり物を投げつけられたことがおそろしくて、からだが竦んでいるのが自分でもわかる。
「お前、さっきのがお客様にする態度か」と男は言う。
「いえ、申し訳ございません。そんなつもりは決してないのですが、ご不快な思いをさせてしまったのなら、本当に申し訳ございませんでした」
「お前、大勢の前でオレに恥をかかせて楽しいのか」
「決してそんなつもりは」
「お前ダメだな、お客様に対する態度がなってないな。お前、いまオレに声掛けられたときに、直ぐ謝らなかったろ、ちょっと間があっただろ、お前ダメだ」
 いきなり物を投げつけて萎縮させておきながら、そんなことを言うのか、と暗い気持ちになった。
「いえ、申し訳ございません。そのようなつもりは」
「ダメだな、お前ダメだ。生きてる資格ないな」と男は言った。
 もう逃げられない、パターンに嵌められているのがわかる。
 お前はオレを舐めている、バカにしている、と、そうではないと証明できないことで、お前はそうだと男は決め付けつづけ、お前は気にくわない、姿形も気にくわないから殺してやる、刺してやるよ、お前刺してやるから外に出ろ、と言う。言葉がはったりではないのを示すかのように、さっと革ジャンのポケットからナイフを出してこちらに見せ、それをポケットにしまった。
 妙な空気を感じたのか、店の中にいた客までが、何事か、と出てきた。
 受付カウンター前で揉めているから、やって来た客の入店手続きも退店手続きもすんなりとは出来ずに、その後やってきた人達もカウンターの辺りに溜まって来て、いったいなんなんだ、という空気になっている。
 男はその状態を、どこか楽しんでいるようだった。
 不快な思いをさせてしまったことを謝りつづけたが、許す気などは元からないらしく、どうにもできなくなっているのを見るのが心地よくて、僕に恥をかかせ、無力感と屈辱感を与え、自分が今この場すべてをコントロールできているのがたまらない、という感じであるようだった。
 謝りつづけながら、こんな電話を、以前勤めていたコールセンタで毎日のように取っていたことを思い出した。
コールセンターをうつ病になって辞めたはずなのに、また戻ってきたら、同じことを繰り返している。
 その場にいるみなが、どうにかしろよ、と思っているのを感じる。
でも男は、僕にどうにもさす気はないのだ。どうにも惨めでたまらない気持ちにさせたいのだ。
 何度も頭を下げさせられつづけている。
そんなに人を惨めにさせたいのだろうか。
僕のような人間とこういう人間がいる。
僕のような人間が外に出れば、僕はまたひどい目に遭わされる。煽り運転をして人を殺すような人間も、子どもを殴って虐待するような人間も、人を脅したり刺し殺したり、爆弾で吹き飛ばすような人間も、居なくなることはない。ずっと奴らはいつづける。僕らが外に出て来ると、奴らはまた僕らを傷つけにやってくる。
 大学生のバイトのひとりが、社員が全員来るって言ってますんで、と相手の男に気を使うようにして、僕に近づいて来てささやいた。
男に、
「店の責任者一同がいま向かっておりますので、改めて一緒に謝罪させていただきます、申し訳ございません」と言って頭を下げると、満足気で、笑いだしたいのを我慢しているようであった。
 男はからだをひねって、じっと僕の顔を下から覗き込むように見た後、目線を外して、フフと鼻で笑った。
 
 
  僕のせいで、一旦家に帰ったのに、社員は男に謝罪するため全員また店に戻って来ることになった。社員からしてみれば、そういうことがないようにする役割で置いたのに、いい歳して何も役に立たないやつだな、ということかもしれなかった。
 社員皆が、各々家に帰った道を、自分の車やタクシーなどに乗って、引き返している姿が思い浮かんだ。
 実際周りにいた大学生のアルバイトからも、あんた何やってんだよ、と思われているようだった。
 社員が店に到着するまでの間、僕は普通に働くわけにも行かず、僕が働けず、人手が足りなくてスタッフ皆が困っているところを、男と二人、カウンターから少し離れたところに並んで見ているしかなかった。
 やがて社員が、ほぼ同時と言えるぐらいに、間を空けずにやって来た。帰ったときと同じ格好だが、一旦脱いだりしたスーツを、このためにまたもう一度着直して来た、という感じがどこかした。
 男に、社員も含めた全員で改めて頭を下げ、あとは店の責任者である店長とエリアマネージャーの松本さんが対応するということで、僕はその場を外れるように言われ、社員の中ではいちばん下の平田さんに、事務室へと連れて行かれた。
 電話で大学生のアルバイトから、ある程度のことは聞いているようだったが、もう一度自分の口で、何があったのか説明することを僕は求められた。
 自己弁護にならないよう、言い方には気をつけて説明したつもりだったが、それを聞いた平田さんには、いかなる理由があろうとも、結果、店に迷惑を掛けていますよね、と確認するように言われた。
 言葉には出なくとも、どこか自己弁護したい気持ちがあるのを、僕は見透かされたような気がして、恥ずかしいような惨めさを感じた。
「深夜によく利用されているお客様ですけど、あなた以外、特に深夜の人は誰もあのお客様とトラブルになったことはないわけですよね。他の人には、出来てたわけですから」と言い、
「社員が今フォローしてますけど、店に損害を与えてますから、責任は取って頂きますんで、それなりの覚悟はしておいてください」と平田さん言った。
「おそらく、辞めて頂くことになると思います」
 処分は追って伝えますので、今はそこにいてください、と平田さんは僕に言い、他の社員が応対している、あの客の元に戻って行った。
 一人でいるからもあるが、事務室は、いつもより静かな感じがした。
 前務めていた、うつ病になって辞めざるを得なくなったコールセンターでもそうだった、という気がした。
 結局僕は、相変わらずこりていないのかもしれない。僕はどうにも、世の中に通用しない、人並みになれない甘い人間なのかもしれない。
 公正に見て、自分に非がないと思えるときは、誰か自分の味方をしてくれるんじゃないか、と相変わらず無意識の内に、どこか思ってしまっているのだ。
 そんなことはどうでもいいことだ。
 時計を見ると、もうそろそろ夜のシフトが終わる時間になっていた。深夜のシフトで働いているバイトの一人が、いつもと何か違う雰囲気に戸惑いながら、事務室に入ってきて、何だか僕に気を使いつつ、タイムカードを押して行った。その後も、同じように深夜のシフトのメンバーがタイムカードを押しに入ってきたが、みんないつもと違う空気を感じつつも、僕に話しかけていいものかもわからないような感じで、結局みんな僕に話しかけはしなかった。
 夜のシフトが終わる時間になると、今度は、同じ夜のシフトの大学生バイトが一人入ってきて、やはり僕には話しかけずに、今日のシフト全員のタイムカードを代表して押して行った。
 やがて社員たちが戻って来た。
 男は、社員たちに対しては態度が変わり、今日の料金と食事代は無料ということで気分も戻り、別にオレとしてはこれ以上ことを荒立てたくはないんだよ、と言い、店としてもそれが望むところだから、それで済んだということだった。
 店のどこか、おそらく個室タイプの席で、今まさに、男がリクライニングチェアーにふんぞり返りながら、やってやったぜ、というような笑みを浮かべているのかと思うと、僕はどうにもやりきれない気持ちがした。
 目の前には、社員がいた。数時間前に帰った筈なのに、また、帰った道を戻って来て、各々自分の席に腰掛けて、疲れた顔をしている。これからまた家に戻って、朝九時までには出勤してこなければならない。
 それは僕のせいだ。特に僕を、店に採用してくれた店長の方には、視線も殆ど向けられなかった。
 黙って立っていると、平田さんは他の二人の社員の顔を少し窺った後、もう零時も過ぎてるのでひとまず今日はあがってください、と僕に言った。
 ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ございませんでした、とだけ言って、事務室を出た。こういうときにどういえばいいのかわからなかった。

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