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宗教2世 父親との再会

僕は昔自分が住んでいた家を訪ねた。大学を卒業するまで母と暮らしたマンションだ。あれから七、八年経っているが、懐かしいな、と思いながら、エレベーターで以前住んでいた階に昇った。母と僕が住んでいた部屋はいちばん奥にあるので、廊下を進んで行く。その途中、以前僕が住んでいた部屋の隣にあたる部屋の入口の前に、たぶん家族だろう、ちいさな男の子と女の子を連れた、一人の男の人が立っていた。僕が住んでいたときには見たことのない人たちなので、僕と母が部屋から出て行った後に、隣に引っ越して来た人たちなのだろう。
こんにちは、と僕は挨拶をした。しかし、立っていた男はそれを無視した。そして僕のことを睨みながら、彼らの部屋のドアを開けて、外敵から守るように子どもたちを中に入れた。
 何でそんな態度を取られるのか僕はわからなかったが、横を通らないと僕が以前住んでいた奥の部屋まで行けないので、すみません、と僕は頭を下げて通り過ぎた。通り過ぎてちょっと振り返ると、男は立ったまま、やっぱり僕のことを見ていた。その眼付にはなぜか怒りか、敵意のようなものが感じられた。
 困惑しながらも、奥の以前住んでいた部屋の前まで僕は来ると、そういえば僕らが引っ越したあとに、マンションの管理組合から母にクレームの電話が入ったことを思い出した。僕たちが住んでいた部屋の隣に引っ越して来た夫婦からの苦情を伝えたものだった。引っ越しの挨拶に訪ねた身重の奥さんを、この扉の向こうに住んでいる人間は一時間近くも外に立たせたまま、換気扇から出る煙が臭いなどと言いつのったらしい。それを思い出して、あんな態度を取られるのも当然だな、と思った。もう一度振り返ると、男の人も中に入ったのか、もう廊下には誰も居なかった。前に向き直ると、扉の横にあるインターホンの下に紙が貼ってあるのに気づいた。決して二回以上鳴らすべからず、と書いてある。
 帰りたくなった。会いに来て、会っていないのにもう帰りたくなった。この扉の中にいる人間とは関わるべきではないと、僕の中のセンサーが言っている。でも関わらなくてはならない。この扉の中にいる人間は僕の父親だ。僕は自分で選んでいないのに、この扉の中の人間と関わらされてしまったのだ。
 インターホンを鳴らすと扉が開いた。
 出てきたのは紛れもなく僕の父親だった。七、八年振りに会うので老けている感じがした。最後に会ったのは、僕と母がこのマンションの部屋から引っ越す直前の頃だ。僕は大学を卒業し、母は再婚をして、ずっと住んでいたここから出ていくときに、それと入れ替わりに父がそれまで僕たちが住んでいたこの部屋に住むことになって、そのとき何年かぶりに僕は父と会ったのだった。
 あれからまた七、八年振りに顔を会わせるが、父親はただ無言で扉を開け、入れ、という仕草だけして、また中に戻っていく。玄関にはわずかに靴を脱ぐスペースがあるだけで、それ以外は段ボールの箱や工具箱や傘や靴などが散乱している。入らないわけにも行かないので玄関から短い廊下を抜けリビングに入ろうとすると、そこはいちめんゴミだらけだった。ゴミだらけというよりも、ゴミ箱が部屋になっていると言った方が近かった。
昔自分が住んでいた家がゴミだらけになっている。壁紙などに昔の面影がある。父はゴミの中にある椅子を指さして、僕に座るよう即した。父もゴミの中にある別の椅子に座る。生ごみと加齢臭と汗臭い酸っぱい臭いを混ぜたような臭いが微かにする。少しは落ち着いて、部屋の様子をちゃんと見る余裕が出てきたが、壁には見るからに新興宗教の団体のもの、という感じの、目をモチーフとしたシンボルマークが描かれた紙が留められている。本棚には(といって下三分の一位はたくさんの物で隠れているが)、見えるところには新興宗教の本がずらっと並んでいる。よく見るとパソコンやプリンターなども置いてあるが、電磁波が体に悪影響を及ぼすのを防ぐため、という感じで、壁に留めてあるのと同じ宗教のマークの紙や、金属製のマークのバッジが、それらの機器に貼り付けてある。
 事前に電話で話したのだが、もう一度面と向かって、なんと言っていいかわからない。図々しいが、困っているので助けてくれないか、という頼みをしに来たのだった。母とたまたま電話をする機会があったときに、うつ病のことは隠したが、仕事が上手く行っていない、と話すと、父を頼ったらどうか、と言われたのだった。母から見れば、父はこれまで僕が大学を卒業するまでの最低限の学費は支払ったが、あとは僕が大学を卒業したら明け渡す約束だったこのマンションのローンを払ったぐらいで、ほとんどすべてを宗教に費やし、そもそも子どもである僕には親らしいことなど何もしていない。困っているなら、頼ってもいいし、それぐらいするべきだ、と母は言ったのだった。
 もちろん僕の中にも、自分を被害者だとは思いたくないが、もし、普通の家庭に生まれていたら、という気持ちが、ゼロかと言われれば、そうとは言えなかった。
 だが、直接父を前にすると、なんと言っていいかわからない。父にとっては宗教を信じ、それにほとんどすべてを費やすことは正しいことだ。お前がいなければ、わしは出家出来たのに、と僕は子どもの頃に言われたこともある。
 どう切り出そうか、と思っていると、父親はネックレスを取り出した。
 ダウンジングというのだろうか、指で摘まんでネックレスを垂らして、イエスイエスイエス、ノウノウノウ、と言い出した。
 垂れているネックレスが揺れ始める。僕が見たところ、父が自分で揺らしているように見えるのだが、イエスイエスイエス、ノウノウノウ、とネックレスに問いかけながら、揺れがどう変化しているか、父は見ているようだった。イエスイエスイエス、ノウノウノウ、父はネックレスをじっと見つめている。やがてネックレスが回り始める。僕はその様子を黙って見ているしかなかった。
 
 
目が覚めると、真っ暗な天井を見上げていた。
 疲れ果てて家に帰ってから、いつの間にか眠ってしまったらしい。すこしは眠れたのだろうか。だとしたら久々だ。しかし、それにしてはあまり眠れた感じはしない。最近では、眠ったとしても疲れが抜けることはなく、疲れは完全に体に染みついてしまって、絞っても落ちない汚れのようになっているのを感じる。どうやったらこれを落とせるのかがわからない。また薬を飲み始めているのに、もう薬はあまり効いてはくれない。
ベッドに横になっているだけでもいくらか体は休まる、と思って、目をつぶってじっとしていることにした。自分の呼吸する音が聞こえる。真夜中ぐらいだろうか。夜遅いからか。とても静かで、このアパートの建物には自分以外の人たちも住んでいるはずだが、何の音もしない。
 落ち着かない。胸に手をあててみると、動悸が激しくなっていた。昼間父親に会ったのがやっぱりこたえているのかもしれない。
しばらくして、暗い部屋の中で電話機の留守電ボタンが赤く点滅しているのに、僕は気づいた。
 父親からだろうか。だとしたらどんな内容なのか聞かなければならない。
 昼間会ったのに。あれほど話したのに。なぜ電話を掛けてきているのだろう。
 聞きたくないが、聞かなければならない。どうしようか迷いながら、ベッドの上で長い間じっとしていた。
 体が重い。
体を動かすとめまいがした。めまいが収まるのを待ってから、這うようにベッドを出て、僕は電話機の赤く点滅している留守電ボタンを押した。
「メッセージは三件です」という機械的な女の声が流れ、その後に音声が聞こえてきた。
「もしもし、もしもし。居留守か。もしもし。留守電でなぜ電話に出ないのか。もしもし。家賃を貸してほしいとのことだが、電話をもう一度掛けてこなければ払わない。宗教に入らなければ。先ほどに加えて話したいことがある。もしもし、なぜ出ないのか。もしもし、なぜ出ないのか。もしもし。仕事に行こうとすると体調が悪くなる、夜眠れないとのことだが、そんなものは病気でも何でもない。なまけ病だ。仕事を辞めてもそんなことならどこにも就職など──」
「もしもし、また出ないのか。もしもし。いいかげんに、もしもし。仕事はつらいのが当たり前だ。わしらのときはそんな人は誰も見たことがない。そもそも卒業してアルバイトや派遣というのが間違えている。正社員でないものは一人前ではない。人以下だ。聞いているんだろう。ずっと親に迷惑をかけている。わしにとっては何のプラスにもならん大学の学費を払わせ、まだ金をというのがおかしい。ずっと親に迷惑をかけている。お前がいなければわしは宗教に専念できていた。もしもし。留守電をやめて電話に──」
「最低だ。電話に出ようとしない。お前の存在がどれだけ負担になるか。金は援助できん」
 体が重い。ベッドに座り、しばらく体をじっとさせていた。
 そして倒れるようにベッドに横になった。
 
いつの間にか、僕は夢を見ていることに気づいた。子どもの頃の、小学校高学年の、あのときのことだった。もう父親とは別居していたが、一、二ヶ月に一度ぐらいは、まだ、会ったりしていたときのこと。
三人で暮らしていたマンションを出た父親が、住んでいるワンルームマンションに僕が行くと、冷蔵庫から、父親が汚いタッパーを出して来たのだ。父親はフフ、と笑いながら僕の前でその汚いタッパーを開けてみせた。
中に、見たこともない黒緑のダンゴみたいなものがいくつか入っていて、一個食べてみろ、と父親は言った。
見た瞬間、なにか人の食べるようなものではない、と思ったが、父親はしつこく、人になにかイヤなことを強要するとき、いたずらをする子どものように、いつもフフ、と笑いをこらえながら言う癖のまま、しつこくいいから食べてみろ、と言ってきた。
いいよ、いらないよ、と僕が断りつづけていると、食べたら二万やろうと、父親は言った。
二万円。二万円あったら、友だちの中で僕だけ持っていないファミコンが買えると思った。自分の貯金と一万円ぐらい使って、ファミコンと、もしかしたら発売されたばかりのドラゴンクエストが買える。そして残り一万円を母さんにあげたら。最近事務員と夜は薬局でアルバイトをしているから、きっと母さんも喜ぶ。
フフ、フフフ、と父親は笑っている。
 僕は目をつぶって思い切ってそのダンゴを一個口に入れようとしたが、直前で躊躇してしまった。すると父親が無理やり口の中に押し込んで来て、その瞬間、どの味とも似ていない苦いような、強いて言えば、以前友だちと遊んでいてドブに落ちたときにしたような味が、口の中いっぱいに拡がって、一口噛んだだけでもう無理で吐きそうになった。飲み込もうとするたびに体が拒絶反応で吐きそうなって、でも父親は吐かせないように口を押さえようとしてくる。僕は最後は父親の手をはね退けてトイレに駆け込み、口の中にあるものをすべて吐いた。
 父親はそれを後ろからみて、フフ、フフフフフと笑っていた。そしてなぜ食べないのか、と言われた。食べろと言われても、あんな味のするもの、食べることは出来なかった。
 何年か経ってから知ったことだが、それは当時父親が信じていた新興宗教の、教祖の糞入りのダンゴだったのだ。
 そして、今日の、あのゴミ屋敷になったマンションの部屋に、僕と父親がいる。そこで父親が僕に言ったことを、夢の中の父親もまた繰り返している。
 不幸せな人間は生まれたときからそうなるように決められているのだと、僕に言う。神さんがそうお決めになられていて、その人間のノートみたいなものに、不幸せになるような人生が書かれているのだと。
 だから人間の意思などにはなんの意味もない。人がどう思いどうしたところで、結局は神さんの決めたとおり、神さんがお書きになられた人生からは逃れられないのだと。
大学ともいえないような大学を卒業し、仕事ともいえないような仕事につき、そこでストレスをためうつ病になって、金に困っているという。
しかしそれはそうなるようにしてなっているので、ならない人間は決してそうなりはしない。
お前はずっとそういう人生を生きることになっている。お前の人生は神さんによってそう決められているのだと。神さんからは逃れることができない。
すべては神様がそうお決めになられているのだ、と父親は言った。
窓から光が射して、父親のからだを照らしていた。

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