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共同幻想

あるよさこい踊り団体のテーマに対する考察 見解|dragoniata|note

「踊る人も見る人も楽しく」という幻想。

人間同士が共感しあい「良かったね」、「楽しかったね」、「本当だね」、「すごいね」と言いあう関係。

夢のような気分にもなる。しかし、その共感性から一つズレると、疑い確認することになる。時に、些細に共感しあったことが数日後に、共感しあうことから手の弘を返されることもある。仕事の約束ならば、共感性とは違い、約束した仕事の内容を確認することができる。

2000年代に教育の分野の本や子育ての本で共感性やほめることが話題になっていた。すごいリベラルだったと思う。自分が子供時代にしてほしかったことが遅れて話題になっていた。

「見る人も踊る人も楽しく」。当時いたよここい踊り団体の文言。
その言葉に従い、踊りで共感してもらう事は団体の人は求めていた。

自分は無意識に影響を受けていた。学生時代の事がトラウマになり、その分析をして、形式や本質を抽出してた。理論化してノートに書いて言ってた。
その文言の影響で、誰かに話して共感してもらいたいと思っていた。無駄だった。

「この経験の仕組みは~によってなっている」というと、空いたが年下の為か聞きたくないと言われる。又は理論のみをいうと、「無駄」と言われる。
踊り団体の人々は、踊りでの共感性しか求めてなく、それ以外の事には無関心だったようだ。彼らは高知ほにやの価値観をもって、エリート的な意識を持っていたようだ。

論理のパターン

「踊る人も見る人も楽しく」。それ以外に「個性の尊重」だの、「異文化礼賛」だの言っていた。それは建前の様だった。
建前というより、踊り団体のよさこい踊りの個性や異文化性を入ってくる人に尊重しろという物だったのだろう。

「踊る人も見る人も楽しく」、「個性の尊重」、「異文化礼賛」。
これらの言葉を見ると述語でしかない。なぜならそこに主語はない。隠れていて。括弧に(踊り団体の)という要素く含まれるのだろう。3要素とも。

彼らは沖縄の文化の発展とも言っていた。彼らがよさこい踊りに陶酔するのは、「沖縄の為」という言葉を置き換えているともいえる。

「踊る人も見る人も楽しく」を例にするならば、
       
「踊る人も見る人も楽しく(踊り団体の(沖縄の為に))」となる。
もっと言うと、
踊り団体(踊る人も見る人も楽しく(踊り団体の(沖縄の為に)))という仕組みになるだろう。

「個性の尊重」、「異文化礼賛」も上記の図と同じであろうと思われる。
当時気づいている人はいたのだろうか?

この述語が団体の集合体を作る。そして互いの共感性により、集合性を作るので、共感していることからズレると、村はずれになりやすい。

その証拠が「自己満足」、「他に行け」、「役に立たない」という言葉であろう。沖縄という場所は活気のある場所が乏しく、この団体以外活発でないからいるしかなかった。その理由は学生時代にサークルやめた時に「絞められる」と脅されたことが大きかったと思う。他にも「お前には友達出来ないよ」とも言われた。

学生時代のサークルの奴らも群れだけの存在でしかない。村で群れているだけなのだろう。それは同時に踊り団体にも言える。高知の踊り団体を崇拝賛美するのみで、団体でつるんで踊る事しか何もできないからだ。そして何人か集まらないと何もできない。単体になるのを恐れている。仕方がないので、一人で経験を書きだして理論を見つけていくしかなかった。

沖縄の典型的な行動性だ。
だから何かと仲間意識を誇張して群れようとしたがる。2人以上になって集まる事が生存本能かもしれない。自分の故郷ではこの考え方は強くなかった。

故に共感性は共感からズレると村はずれになりやすい。
そして仲間意識は時に強い毒となる。仲間が認めるふりをしだしても、寄せないことが望ましい。無言で味方のふりをする人がいる。そして認めるふりをして、人の考えたものを我が物のようにしてしまうのがいるから。

これはどこにでもある事だろうが。






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