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楽しい事

沖縄時代

沖縄の人の楽しみはわからない。「楽しい事考えろ」とは言ってくる。
私から見ると、酒飲んで楽しむか、女性なら共感話して楽しむか、踊りをしてて楽しいか、男性は騒いで楽しいかしかなかった。

自分には、真面目なこと考えて楽しい、最悪なことが残っていてそこから理論を抽出する楽しみしかなかった。彼らにはなかったし、沖縄の人には理解しえないものと思う。そんなこと考えても一つも意味ないと思っているから。好きでしているわけでもない。理不尽な経験があって、抜け出したいから物書きという行為を通して行っていて、人間関係の理論や意識の理論に出すしかなかった。

そんなのを言葉に出して言っても誰も理解しない。精神病院のカウンセラーの所に行けとしか言わない。行っても意味なかった。

人間は言葉を出して交流する生き物である。しかしそれを否定されるとストレスが溜まっていく。風俗に行ってお金を払って憂さを晴らし、相手をしてれる女性と世間話をするしか道が無くなっていく。何が楽しいのだろう?

ウチナーの人は、やさしいとは言われているが、そう言われているだけ。実際は血も涙もないと思う。優しいのは身内だけ。身内に対する反応が優しく見える。赤の他人に見えてもその人は近遠のイトコだったりする。
人を哀れんでいるだけの優しい人もいてややこしい。女性に理解されたい欲望もあったためか。空しく終わる。行っている難しいことを具体的にしても、同じ。

共感性は排他性の裏返しでしかない

踊り

踊りは楽しいのだろう。クソくらえと言いたくもなる。よさこいの踊り団体にいたが、客観的にものが見えにくくなった。やめてみて初めて見えた。
踊り団体は自己陶酔する事によって成り立っていく。
「踊りが楽しい」という自己陶酔性に疑問を持つことができにくい。それが誰でも。思っていても言葉に出しにくい。

当時いた踊り団体のメーリングリストはマスコミのテレビのように賛美の言葉を宣伝していく。そこから外れると自己満足にされていく。又は出した文書はずれてても、ひどくもない言葉なのに謝罪もさせられていく。自分の文書が承認欲求に満ちてたのだろう。踊りを踊っているインストラクターの女性も、踊りのすばらしさを言うのみで、セオリーを言葉にもできてなかった。それで威張っている。踊りのズレを指摘して、何が楽しいかもわからないのにな。自己満足ならば、あの人達の自己陶酔や賛美も自己満足だと思う。力があるから許されるのだろう。

辞めたわけ、女性の件でやめた。たとえそのまま続いていても、やめていたと思う。踊りやれ、楽しめとしかないから。あの人たちは踊りを通しての自己陶酔な楽しみしか共感できない。高知の踊り団体からいただく踊りでしか存在価値がない。リーダーはその土台の上で勝利を確信できない。
高知の祭りに高知の踊り団体の一員として参加して、そこで得た賞を自分の物のようにしか自慢できないから。

その上で自分は価値を作るとしか言わなかった。
見ていて、嫌になる。賞の取れるしくみ、その団体の上で参加できるのだから、自慢ばかりしていて、唯我独尊にしか見えなかった。






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