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学歴について

僕は、いわゆる「メガバンク」に在籍していたので、学歴に対して、あまり過剰な幻想を抱かないで済んだ。

もともと大学卒業後に新卒で入社したのは、「都市銀行」(当時は13行あった)の上位行の1つであった。本店が東京にある銀行だったので、大卒行員の出身校としては、東大、早稲田、慶応、一橋が多かった。僕は、関西の国立大学出身で、毎年、母校からもコンスタントな入社実績はあったものの、これらの大学に比べれば、少数派の部類であった。

というか、関西の各大学からの採用人数を全部足し合わせても、早稲田か慶應どちらかの採用人数とたいして変わらないくらいであったと記憶している。

フワッと「関西の各大学」という書き方をしたが、もっと具体的に言うならば、京大、阪大、神戸大のいわゆる「京阪神」3大学がほぼ大部分を占め、その他大学で残り僅かな枠を埋めていた。「京阪神」以外で複数名(2人以上)採用があったのは、同志社、大阪外大、大阪市大(現公立大)くらい。関関同立でも、関学は毎年1人だけ、立命館は数年に1人レベル、関大に至ってはバブル以前は皆無であった。産近甲龍は、強力なコネでもあれば別だろうが、普通ではちょっと考えられなかった。学歴フィルターどころか、バリバリの指定校制度が活きていた時代である。

上位都銀の例にもれず、歴代の頭取なんかを見ると、圧倒的に東大出身者が幅を利かしていた。同期とか先輩・後輩にも、とにかく東大卒が多かったというか、目立っていた。

大学を卒業するまで関西にいたし、普通の公立高校出身者だったので、そもそも東大生とか東大出身者とリアルに接触する機会自体があまりなかったのだが、銀行に入ってからは、「世の中には、こんなにたくさん東大出身者がいるんだなあ」と思うくらいに、東大出身者にたくさん遭遇し、やがて見慣れてしまい、何とも思わなくなってしまった。

東大のような、高偏差値大学を卒業していることと、仕事における出来不出来とは、必ずしもダイレクトには一致しないが、まったく関係ないかというと、そういうわけでもない。そこが微妙なところである。

受験勉強というものが、社会人になってからまったく役に立たないように言う人がいるが、あれは間違いである。

もちろん、学歴がなくても成功する人はたくさんいるが、そういう人たちは、もともと地頭が良くて、要領が良かったり、何か特別な才能に恵まれているのだ。

僕も含めて普通の人間は、やはり勉強しないよりは勉強した方が良いし、勉強を通じて身につけたことは、決して無駄にはならない。

どんな職業に就くにせよ、算数とか国語みたいな基礎学力は必要である。クイズでしか役に立たないような雑多な知識だって、ないよりはあった方が良い。また、めざす大学の入試傾向や対策に関する情報を収集して、それを踏まえて学習計画を立案し、コツコツと地道に計画を遂行していく工程で必要とされるような能力は、社会人になってからも、仕事において役に立つであろう。

一方、いくら学歴があっても、残念な人もたくさんいるということもまた、銀行のように高学歴者がたくさんいるような職場にいると、よくわかることである。

受験というものは団体戦のようなところがある。有名学習塾→有名中高一貫校→有名予備校→東大といったコースに乗って、落ちこぼれない程度にやっていたら、東大に入れてしまったというような人は世の中にはたくさんいる。もちろん、親にある程度の経済力があることが前提である。学歴というものが、「再生産される」というのは正しい。

でも、単にそういうルートに乗っていただけで、本人は何も考えず、創意工夫もせず、従順に周囲からの指図に従っていただけだとすれば、いくら学歴があっても、ホントの意味での知恵はないのかもしれない。そういう人に比べると、地方の無名公立校から東大に入ったような人の方が、よほど個人的な能力が期待できそうである。

あと、有名大学出身者には、かなりの割合で、発達障害的な人が存在するというのも、銀行に入ってからわかったことである。

橘玲著『テクノ・リバタリアン』によれば、シリコンバレーに集まるような、論理・数学的知能が優れた人や、MIT(マサチューセッツ工科大学)の卒業生には、通常よりも多い割合で、自閉症的傾向が認められるという。

銀行時代の僕の部下にも、某有名大学卒であるが、コミュニケーション能力が著しく低い人がいた。彼は、チラッと眺めただけで、取引先企業の決算数字を記憶してしまうくらいに超人的に数字に強かった。

他にも、膨大な通達類や事務手続き書がぜんぶ頭に入っているのではないかと思うくらいに優秀な頭脳を持っているにもかかわらず、空気がまるで読めず、いろいろな取引先でことごとく出禁になってしまうという困った部下もいた。彼も某有名大学卒であった。

現役で東大法学部に合格・卒業した僕の先輩で、理解力・記憶力は舌を巻くくらいに優れていたが、スケジュール管理が壊滅的に苦手で、しょっちゅう寝坊や遅刻を繰り返しては、上司に怒られてばかりいる人がいた。結局、銀行では活躍する機会が与えられることがなく、早々に転職してしまった。

もちろん、そういう人ばかりではない。ちゃんと優秀な人もたくさんいた。でも、玉石混交というか、有名大学を卒業していても、あまりたいしたことがない人や、困った人も少なからず存在していたのは事実であり、したがって、冒頭に書いたとおり、学歴に対する過剰な幻想は持たずに済んだ。

独断と偏見で言わせてもらうが、それでも、東大出身者は、他の大学に比べると、総じて優秀な人の比率が高いのは紛れもない事実であった。粒がそろっていると言い換えても良い。その中でも、やはり法学部出身者は、全員とは言わないが、「頭が良いなあ」と感心するような人は、多かったように思う。

東大法学部の最優秀層は、大学に残るか、法曹関係に進むか、官僚になるのだろうから、銀行みたいな民間企業に来ているのは、その他大勢のはずであるが、それでも、やはり「違い」を感じさせる人は間違いなく存在した。法学部と経済学部の難易度が逆転したとかいう話を何年か前に聞いたので、今はどうなったのかは知らない。

早稲田と慶應だと、早稲田の方の「ボラティリティ」が高いように思った。とても優秀な人と、そうではない人との「振れ幅」が著しいという意味である。その点、慶應の方が総じて均質的な感じがしたが、内部進学生、特に幼稚舎から慶應という人たちは、かなりピンキリの差が大きかったように思う。

あと、いわゆる私大文系入試を経由した、数学をまったくやらずに来た人たちの中には、絶望的なくらいに算数が苦手な人が存在したのには悩まされた。財務分析やデリバティブ、ファイナンス等、銀行員の場合、数字に弱いと手に負えない分野がいろいろとあるのだが、こういう人たちは、基礎的なレベルで苦労することになる。

今は、AO入試とか、推薦とか、いろいろな入試形態があるから、もはや僕なんかが理解できる範囲を超えてしまっている。

昔は、大学受験の「スクリーニング」機能の有効性が社会で信用されていたから、企業の採用活動はいい加減でも大丈夫だったのだろうが、今だと、大学名だけだと判断が難しいだろうし、そうなると、<入試形態 ✕ 大学のランク  ✕ 大学の成績 ✕ 採用選考>といった具合に、複数の要素の組み合わせで、総合的に判断しないことには能力の判定が難しいと思われる。大学入試はもはやアテにならないので、出身高校までチェックする企業もあるという話を聞いたことがある。

少子化が進み、入試形態が複雑になると、一般入試を経由した学生の方が、「レアキャラ」になってしまい、いずれは今のような大学名だけで判断されるような風潮はなくなってしまうかもしれない。

文系でも大学院修了者が活躍する場が広がる可能性はある。大学入試ではうまくいかなかったが、大学院でしっかり勉強して結果を出した人材を採用したいという企業もあるだろう。専門分野を深く掘り下げて探求する過程で身につけたスキルや経験は、たとえ直接的に企業でのビジネスとは関係がない分野だったとしても(宗教とか、歴史とか、哲学とか、あるいはミジンコの生態であったとしても)、きっとどこかで役に立つような気がする。

そもそも、新卒一括採用自体がだんだんと風化しつつあり、僕がいた銀行も、既に、新卒 / 中途採用が半々くらいになっている。

実力勝負という観点では、いろいろなチャネル、ルートを辿った人材が競い合うようになるのは、悪い話ではないと思う。


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