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「コンパクトシティー」について

「コンパクトシティー」とは、「市町村の中心部に都市機能や居住地を集積し、住民が徒歩で生活できるような都市形態を指す。郊外の開発を抑制し、人口密度を上げることで①中心市街地の活性化②行政サービスの効率化③財政支出の削減④地球温暖化対策――などの利点があるとされる。」というように定義される。

「ぽつんと一軒家」というテレビ番組がある。日本各地の人里離れた場所にある一軒家に暮らしている人物がどのような理由でそこに暮らしているのかについて、衛星画像を手がかりに現地に辿り着いて調査するというような内容であったと思う。

基本的にどこに住もうが本人の勝手と言えば勝手である。山奥だろうが、無人島でも住もうと思えば住める。だが、そうした人のために道路や電気、ガス、水道といった社会インフラを整備するのは(実際にどこまでやれるかは別であるが)、行政の方に委ねられている。郵便や宅配便だって、わざわざ届けてくれる人がいることを忘れてはいけない。高齢者しか住んでいないような地方の過疎地区に急病人が出た場合のことを考えているのだろうか。

年寄りほど住み慣れた場所に住みたいと思う。人情としては理解できるが、そうしたワガママは周囲のさまざまなコスト負担によって成立するということを考えるべきであろう。

高齢者になっても免許証を返納せずにマイカーを運転する人がいる。我々のように都市部に住んでいると、こういうのは単なる老人のヘンなプライドかワガママであると考えがちであるが、地方の場合、クルマがないと生活できないからといった理由は無視できない割合を占めているのではないか。

そう考えると、高齢者は何が何でも街中に住まわせるべきである。住居から徒歩圏内に駅、バス停、商業施設、病院、役所がなければならない。クルマがなければ行き着くことができないイオンモールが郊外にあったとしても老人にとっては無意味である。死ぬまでクルマを運転しろと言うつもりであろうか。すべて徒歩圏、百歩譲っても電車かバスのような公共交通機関を使って移動できる距離の範囲内である。

そもそも、江戸時代であれば、人間は徒歩圏内で住み暮らしていたはずである。それが無理をしない自然な生活であったのだと思えば、老人が他人の厄介にならずに生活しようと思えば、徒歩圏内で用足りる暮らしに戻すしかない。

お隣の中国と違って、民主主義国である日本において、強制的に住んでいる場所を立ち退かせたり、新たな居住地をあてがったりすることは難しいが、都市計画によって開発する地域、開発をしない地域を定めることはできるし、現状よりももっとメリハリを設けて、いわば「住み続けても構わないけど、行政は責任を負いません」というスタンスはあっても良いと思う。

病人が出ても救急車が行くのは町の中心部から〇〇キロ以内までとか、ここから先は電気もガスも水道も引かないし、道路も整備しないとか、郵便も配達しないとかである。要するに不便な生活をするのが嫌ならば、町の中心部に移住するしかないように仕向けることは可能である。

地方は今後過疎化が急激に進む。冗談抜きで鳥取県と島根県が合併しなければならなくなったとしても不思議だとは思わない。市町村の数はざっと1,700余であるが、40年頃には半分が存続困難になるという予測もある。

自治体そのものが消滅する可能性だってあるのだ。いざ何かあっても誰も手助けしてくれない覚悟があるのならば、山の中の一軒家にでもどこにでも、住み続ければ良いのだ。


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