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企業のガバナンスについて

企業のガバナンスは、民主主義政治の仕組みと似ている。というか、双方とも本質的には、権力者を暴走させないための抑止力が有効に機能するにはどのようにすればいいのかという発想がベースにある。

人間というものは、権力を持つと暴走するようになること、どんな優秀な人間も無謬ということはあり得ないということ。これらは長い人間の歴史から得た教訓であり、人間の知恵でもある。

民主主義というものはきわめて効率が悪い。何か物事を決めようと思えば、議論を積み重ねて、多数決を取る必要がある。いろいろな思惑の人がいるから、すんなりとは決まらない。正論が通るとも限らない。したがってスピード感も乏しい。それでも間違っていたら修正ができる点はメリットと言える。スピード感とか効率性よりも安全性を重視したシステムであると言える。独裁者が権力を握っている隣国などは、仮に独裁者が間違っていても、誰も物申すことができない。「ゼロ・コロナ」とトップが言い始めたら、側近たちも国民も、「そんなの無理やん」と内心思っていたとしても、誰も何も言えない。

それでも、独裁者がスーパーマン並みに優秀であれば、独裁者が即断即決するような体制が最も効率が良くてスピード感もあるのだろう。会社も同じである。天才的な経営者が徹底的なトップダウン方式でワンマン経営をやるのが最も効率的である。うまく行くときはそれがベスト。幹部の合議制で、ああだこうだと議論を重ねるのではなく、快刀乱麻を断つごとく、何事もトップが即断即決。成功したスタートアップ企業の経営者は大なり小なりこのタイプであろう。

だが独裁者も名経営者もずっと間違えることなく、ずっと優秀なままであるとは限らない。織田信長、ナポレオン、アレキサンダー大王、マルクス・アウレリウス、始皇帝等々、いずれも同様である。人間は老いるし、健康を損ねると判断も鈍くなる。名経営者と呼ばれた人たちも年を取ると耄碌するし、耄碌すれば判断を誤る。何よりも怖いのは、優秀なワンマン経営者の長期政権が続くと、周囲には「イエスマン」というか、自分では何も考えず、ボスから指図されたことを唯々諾々とこなすだけの茶坊主みたいな幹部ばかりになってしまうことである。

そうなると、ボスが耄碌しても、誰も引導を渡すことができない。というか、何も考えられないイエスマンたちにとっては、現状が永遠に続いた方が居心地が良い。晩節を汚す名経営者が珍しくないが、それらは本人たちだけの責任とは言えぬ。

会社のガバナンス強化の観点から、監査役やら社外取締役の役割が重視されるようになっている。意思決定の効率性とかスピード感という点では、これらはマイナス要因のような気がするが、経営トップに対する抑止力としては、使いようによっては、有効な役割を果たす可能性はある。

もちろん、ちゃんと適材を得て、ちゃんと役割を果たした場合にはという「ただし書き」つきである。社内の茶坊主と一緒になって、トップに何も言わず、黙って座っているだけであれば、いない方がマシであろう。

社外取締役も監査役も手続き上は株主総会で選任されるが、実質的にはたいていの場合、経営トップが人選することになる。自分に楯突く心配のないような人畜無害なメンバーしか招聘しないようならば、新たな茶坊主が追加されるだけである。

企業の不祥事が起きると、制度をいじれば何とかなるというような動きになる。社外取締役を増やそうということになり、2人以上であるとか、3分の1以上とかいう話にある。監査役会設置会社やら指名委員会等設置会社やら監査等委員会設置会社やらと機関設計のオプションもいろいろと用意されているが、ことの本質は制度やカタチの問題ではないと思う。

経営トップに対して、ダメなものはダメと忖度なく言えるようなメンバーが揃っているかどうか。それは社外取締役や監査役でなくても、社内の業務執行取締役であっても構わない。会社法上、取締役は相互に監視・監督する義務を負っている。代表取締役が暴走しそうならば、他の取締役は身を挺してそれを止めなければならない。

大事なのは、本当にそれができるかどうかということである。形や制度の問題ではない。覚悟の問題である。



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