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【小説】 飛びます 飛びます(その1)


【あらすじ  】
テレビタレントの志津香と結婚し、かわいい娘にも恵まれた公務員の僕。妻の芸能活動を支えながら、幸せな生活を送っていたが、幸せは一瞬にして崩壊していく。

   僕は、しがない地方公務員だけど、ひょんなことからテレビのバラエティー番組などでそこそこ活躍するタレント飯尾志津香と付き合うことになり、1年間の交際ののち4年前に結婚した。僕が27歳、志津香が29歳の時だ。

   僕はテレビをあまり見ないので、最初は志津香が芸能人だということを全く知らなかった。たまたまフィットネスクラブで知り合った彼女に僕が一目惚れして、一人の女性として真摯に接し、時間をかけて仲良くなった。その当時、海千山千の芸能界に疲れを感じていた志津香はそれが新鮮だったようだ。志津香は自分の仕事についてメディア関係だと言っていたが、まあ間違いではないだろう。志津香が芸能人だと知ったのは、正式に交際を申し込んだあとだった。

   結婚に至ったきっかけは子どもができたからだけど、僕と志津香はお互いに心から愛し合っていたし、マスコミも芸能人と年下の公務員との純愛と結婚を非常に好意的に報道してくれたので僕らは幸せだった。志津香の好感度も上がり、ママタレとしてプチブレークを果たした。

   志津香は仕事が忙しく時間も不規則だったので、自然に家事や育児は比較的時間に余裕がある僕の役割になっていた。もちろん志津香も少ないオフの時間をフルに使って、家事や育児に奮闘していた。娘の夏美もとうとうイヤイヤ期に突入し、時々小さな怪獣になって暴れまわるので、僕らもずいぶん手を焼いたけれど、それさえも幸せだと感じる日々を送っていた。

   志津香は帰りが遅くならないようにスケジュールを組んでもらい、家族との時間をできるだけ作るよう努力していたけれど、夏美の3歳の誕生日にあらたまった顔で僕に言った。
   「今までできるだけ家族を優先して仕事を選んできたけど、夏美も3歳になったし、もっと芸能活動に力を入れていきたいの。今が頑張り時なの。今がもっと上に行けるチャンスなの。だからあなたにも負担をかけてしまうけど協力して欲しい。お願いします。」
   志津香は深々と頭を下げた。
   僕は、いきいきと働いている志津香を見るのが大好きだったのでそれを快諾した。「僕は志津香を全面的にバックアップするよ。でも、身体だけは壊さないようにしてね。」と言うと、志津香は目を潤ませて僕に抱きついてきた。夏美はそんな二人を見て、キャーキャー笑いながらグリグリと二人の間に割り込んできた。

   それから志津香はさらに芸能活動に打ち込むようになった。深夜にすまなそうに帰宅することも多くなり、泊りのロケで帰ってこない日もあった。そんな妻を少しでも支えようと、偏食気味の志津香でも食べられる栄養バランスの取れた弁当を作って、仕事に支障がない時は持たせるようにした。ランチバッグの中にはお弁当と一緒に激励のメッセージカードや夏美が書いた絵なんかも入れた。志津香も毎回それを楽しみにしてくれた。夏美は寂しがっていたけれど、その分僕が今まで以上に愛情を注ぐようにした。

   それから半年が過ぎた頃、志津香は相当疲れが溜まってきたのか、家に帰ってきても会話が少なくなった。疲れた顔でぼんやりとスマホをいじっていることも増えてきた。夏美がはしゃいでまとわりついてもどこかうわの空だ。僕だって正直言って寂しかったので、二日ぶりにロケから帰ってきた志津香をハグしようとしたら、「ごめんね。ロケで汚れているから。」と笑いながらやんわりと拒否される始末だった。恥ずかしい話だけど、数カ月の間、志津香と肌を重ねる機会もなかった。

   ある日の夜、夏美が40℃の高熱を出したので夜間診療所に連れていった。そのことを仕事に出かけたままの志津香に伝えようと何度も電話をかけたけど出ることはなかった。ラインをしたけれど既読にもならなかった。夏美は流行りの風邪だったらしく、看護師さんに座薬を入れてもらい、シロップの風邪薬を処方されて家に戻った。結局、志津香が家に帰ってきたのは明け方になってからだった。志津香は夏美を抱きしめながら「ごめんね。ママがそばにいなくてごめんね。」と謝っていた。僕は志津香を全く責めなかったけど、「番組の収録中なんだからスマホなんて見られないよ!」となぜか突然逆切れされてしまった。びっくりして何も言えずにいたら、「ごめん…。私が悪かった。あなたは何も悪くない。いつも夏美の面倒を見てくれてありがとう。」とすぐに気まずそうな顔をして僕に謝った。

   志津香はそれからも仕事に追われ、ますます僕や夏美と過ごす時間が少なくなっていった。保育園の行事にも全く顔を出さなくなったし、僕と夏美の二人きりでご飯を食べることも多くなっていった。志津香のために作っていたお弁当も、僕に負担をかけるのが申し訳ないという理由で固辞されてしまった。
   夏美は、いつの間にか志津香がいる時でも僕にべったりとくっつくようになっていた。そんな夏美の様子を志津香は寂しげに見ていたが、それを言葉にすることはなかった。このままではマズイと思った僕は、「忙しいのは分かるけど、夏美との時間だけはもう少し取れないかな?」と頼んだけれど、悲し気に「ごめんね…。」と一言返ってきただけだった。

   仕事優先で家事も育児もほとんどできていなかった志津香だけど、SNSではしきりに良い母親とか良い妻ぶりを発信していた。この前のバラエティー番組でも、どんなに夫と娘を愛しているかをありもしないエピソードを交えて大げさにアピールしていた。芸能人だから多少のリップサービスも必要だろうとそれまで何も言ってこなかったけれど、さすがに呆れて「あれは盛りすぎだろう?」と僕が茶化したら、血相を変えて無言のままプイッと家を出て行ってしまった。行先も告げずに出て行ったのはこれが初めてだった。
   結局、その日は家に帰ってこなかった。心配して何回も電話をかけたけれど連絡がつくことはなかった。

   次の日の深夜にこっそりと帰ってきた志津香に、まずは昨日の無神経な発言を謝ってから、どこに行っていたのか、何をしていたのかと聞いても目を合わせずに「仕事!」と一言だけボソッと言うと、寝室に行こうとした。
   僕は思わず志津香の手首を掴んで引き止め、ソファーに座らせた。

   僕は、不服そうな顔をしている志津香の隣に座り、この頃オーバーワークになっているのではないかと心配していること、笑っている顔をしばらく見ていないこと、志津香の行動がよく分からなくて不安なこと、僕がどんなに頑張っても夏美には志津香が必要なこと、志津香の仕事をこれからもずっと応援していこうと思っていること、もし万が一芸能活動に限界を感じたら無理をしないでほしいこと、出会った時から志津香を一人の女性としてずっと愛していてそれはこれからも変わらないこと、を時間をかけてゆっくりと伝えた。
   志津香は最初仏頂面で話を聞いていたが、途中から両手で顔を覆い静かに泣きだした。
   僕の話が終わると、志津香は僕にすがりついて過呼吸になるほど大泣きした。
   やがて落ち着いた志津香はポツポツと話し出した。
   せっかく働く環境を整えてもらっているのに仕事が上手くいかず焦っていること、テレビの仕事も減ってきていること、プライドを捨ててどんな小さな仕事も全部引き受けていること、いろんな 努力 もしているのにそれが実らないこと、次々に出てくる若手タレントに自分の居場所を奪われることへの不安感、僕や夏美をおざなりにしていることへの罪悪感、もうやめたいと思う気持ちとこの世界にまだ居たいと思う自分へのジレンマ。

   僕たちは明け方まで胸に溜め込んでいたお互いの様々な想いを吐き出し合い、そして一つになり眠りに落ちた。

   それから志津香は変わった。
   吹っ切れたように明るくなり、疲れた顔も見せずに仕事に出かけるようになった。あいかわらず忙しそうだったけれど、仕事をちゃんと選ぶようになったのか、以前よりも時間に余裕を持てるようになった。家に帰ってくると真っ先に夏美を抱きしめて、ニコニコしながら会話を楽しむようにもなった。夏美も今度は志津香にべったりくっついて離れないようになった。夏美と志津香にとって僕は二の次の存在のような気がしてちょっと寂しかったけど、二人の仲の良い姿を見ると心からこれでいいと思った。夫婦の会話もまるで新婚の頃のように戻った。時間ができれば今日あった失敗談やたわいない話に興じて二人で笑いあった。夏美が寝たあとは二人でくっついて過ごすことも多くなった。

   心が安定したからなのか、それとも単なる僕の贔屓目なのかわからないけれど、志津香は確かにどんどん綺麗になっていった。それに比例するかのように、テレビや雑誌に露出する機会も増えていった。テレビで観る志津香はいつの間にか大人の雰囲気を纏ったしっとりとした女性に変貌していた。家に居る時とのギャップに僕はドギマギしてしまった。

   その日は、僕の誕生日だった。
   志津香は、前の日から旅番組のロケで北海道に行っていた。
   「あさって帰ってくるね。それから、これ、一日早いけど誕生日プレゼント。」
   志津香はニッコリ笑うと、僕と夏美をハグしたあとバタバタと家を出て行った。
   ラッピングの袋を開けると、僕が欲しがっていた腕時計ORIS Divers 65が入っていた。
時計も嬉しかったけど、僕が欲しがっていた物を覚えていたことの方が何倍も嬉しかった。

   その日は、夏美と二人だけの誕生日となってしまったけど、僕は全然寂しくなかった。朝、志津香が電話をかけてきて、おどけながらハッピーバースデーを歌ってくれた。そして夜には、夏美からもその日2度目のハッピーバースデーを元気よく歌ってもらい、僕の似顔絵をプレゼントにもらった瞬間に涙腺が崩壊した。泣きながら、夏美を抱きしめて何度もありがとうありがとうと繰り返した。ショートケーキ2つにロウソクを1本ずつ立てて火を灯し、二人でイッセーノ、セで息を吹きかけて消した。それからリンゴジュースとビールで乾杯をし、デリバリーしたピザを二人でふざけ合いながら食べた。
   いろいろあったけれど、本当に幸せな人生だとしみじみ思った。

   お腹がいっぱいになってぐずる夏美をお風呂に入れたあと、寝かしつけるつもりでベッドで一緒に横になっていたら、いつの間にか僕は寝落ちしてしまった。目が覚めると時計の針はもう午前0時を指していた。

   喉がカラカラに乾いていた僕は、キッチンに行き、冷蔵庫からキンキンに冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、立ったまま一気に飲み干した。
   その時突然、なぜか胸の奥がザワザワするような嫌な感じを覚えた。

   僕は、落ち着かない気分のままリビングに戻ってソファーに座りテレビをつけた。画面には豪雪が吹きすさぶ札幌市の様子が映っていて、ニュースキャスターが警報級の大雪だと話していた。
   北海道に行っている志津香のことをぼんやりと考えた。『東京は満月もでているのに、あっちは大変だな。志津香、大丈夫かな?』目を閉じて、志津香の柔らかな笑顔を思い出していると、突然フワッと体が浮くような不思議な感覚に襲われた。まるでジェットコースターが急降下している時の感覚のようだった。

   慌てて目を開いて立ち上がると、目の前にホテルの薄暗い一室が広がっていた。僕は何が起きたのか理解ができないまま呆然と立ち尽くした。

   目を凝らすと、カーテンの開いた窓際でバスローブ姿の男女が抱き合って艶めかしくキスをしているシルエットが見えた。
   シルエットの向こうには窓越しに東京タワーの姿が浮かんでいた。

   女が唇を離し、じらすようにバスローブをするっと下に落とした時、雲に隠れていた満月が姿を現して、澄み切った月明かりが女を照らした。

   志津香だった。

   黄金色の月明りを身にまとい、妖艶に微笑む志津香は、とても神々しく美しかった。
   そして、その光景は僕の心を一瞬にしてズタズタに切り裂き、無数の傷口から真っ赤な血が噴き出した。

   「志津香…。」

   僕が思わず声を漏らすと、二人はギョッとした様子でこちらを凝視した。

   「なんで…。」
   「なんで…。」

   僕と志津香が同時に同じ言葉を発した瞬間、またあの体が浮くような不思議な感覚が襲ってきて、僕は思わず目を閉じた。

   僕はしばらくそのまま目を閉じていたけれど、意を決して恐る恐る目を開けると、そこは我が家のリビングだった。
   『ああ、僕は夢を見たんだな。それにしても、生々しくて嫌な夢だった。』
僕は腰が抜けたようにソファーにへたり込んだ。
   嫌な汗と心臓の動悸は次第に治まってきたけれど、心からドクドクと吹き出す血は全然止まらなかった。

   僕がそのまましばらく呆けていると、突然スマホが鳴った。
   志津香からだった。
   このタイミングで電話が来るなんて、なんという偶然だろう。僕はまだ混乱した頭でスマホを手に取った。

   「今どこにいるの!あれは違うの!」
   電話に出ると、志津香がいきなり叫んだ。
   「どうした?何かあった?どこにいるもなにも、夏美と一緒に家にいるよ。」
   「嘘っ!さっきここにいたじゃない!」
   志津香は狼狽して半泣きになっていた。
   「ちょっと落ち着いて!今、志津香は北海道だろ?僕は仕事だってあるし、夏美だっているし、そっちに行けるわけないよ。」
   「っ!…」
   志津香が息を呑みこむ様子が電話越しに伝わってきた。

   『えっ?あれ?』
   頭の中でついさっきの生々しい夢が鮮明に蘇ってきた。
   薄暗いホテルの部屋。
   抱き合いキスをする二人。
   満月。
   志津香の裸身。
   窓の向こうに見える東京タワー。

   「志津香…。君こそ今どこにいる?誰と一緒なの?」

(つづく)


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