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私たちの、大江健三郎

池澤夏樹=個人編集 日本文学全集『大江健三郎』河出書房新社

 先月のドイツの脱原発の実現のニュースから、私たちの国の原発回帰にいたるまでの流れ、先日には福島第一原発の原子炉土台の損傷をめぐる東電の危機意識の低さなど、原発に関するニュースはいまだ事欠かない。

 そんなおり、大江健三郎が亡くなった。ロスジェネ世代の私たちにとって大江さんは主流ではないが、ショックというよりとにかく読まなきゃ、と、本棚の奥に仕舞われていた本書を取り出した。これは池澤夏樹が自身の独断で選んだ編纂本で、長編は『人生の親戚』、『治療塔』、『狩猟で暮らしたわれらの祖先』などを収録。どちらかというと大江作品ではそれほど有名ではない。何年も前に読んだのだが、著者初のSF『治療塔』だけ読めていなかったので、これを機に読んだ。
 でも、大江さんが亡くなって、『治療塔』を読む人が世の中にどれくらいいるんだろう?

 さておき、この大江さんのSF小説。というより、大江健三郎だからもちろん普通のSFではない。
 核戦争と原発事故で、環境汚染が深刻になった近未来の話だ。全世界的な宇宙船団が選りすぐりで百万人選び、新たな新天地を求めて太陽系外の星に旅立つ。物語は旅立ちから10年後、その船団が宇宙から帰還するところから始まる。
 東日本大震災後の原発事故を経た私たちにとって、この物語は予言とその戒めに満ちている。ガイガーカウンターという言葉が普通に出てくる怖さ。    この世界では食物の安全を確かめるためにこの機器が普通に使われている(小説は1990年に刊行)。
 話は、主人公の女性リッチャンと、宇宙船団の総指揮官の息子で従兄弟の朔ちゃんを軸に展開される。
 
 帰還者と地球に取り残された残留者との間で起こる分断の構図は、いまの世界を見ているようだし、帰還者が権力的に力を持ち、支配してゆく様はまるで、植民地社会で起こりえることのシュミレートでもある(ロシアとウクライナの関係を見ているかのよう)。
 その構図の中で選ばれた者、選ばれなかった者という別れ方は、優生思想そのものだ。いつか、「年寄りは切腹」と言った若い批評家がいたが、それを地でいく恐ろしさ。
 本書のなかでも、帰還者たちによって、残留者との「通婚禁止令」が発出されたり、子供を生むことの有無が法のなかに組み込まれようとされる場面もあるが、これなど「性と生殖に関する健康と権利」の侵害である。近年、大江文学はフェミニズムを彼個人の文学史においてなぞった、と池澤氏も言っている。
 それらを踏まえて見ても、主人公のリッチャンの踏ん張りは、逞しい。

 最終、「治療塔」という宇宙の謎の物体が人類に何を与えようとしたか。話はやがて神対人類といった大きな物語になっていく。
 その物語の根底を支えるのが、アイルランドの詩人イェイツの「羊飼いと山羊飼い」という対話詩。お互いの共通の亡くなった友人を悼みながら歌われる不思議な歌。若返りと、肉体と精神の復活という生死の臨界を謳い上げた難解な詩だけれど、神秘と生命力に満ちている。

 余談だが、著者の最後の小説とされた2012年の『晩年様式集』の冒頭、福島原発事故を受け、「われわれの同時代に人間はやってしまった」と涕泣する主人公と、本作『治療塔』は呼応するかのようだ。私たちは大江文学と共にある。
 ご冥福をお祈りいたします。
 

 

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