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寂聴さんの共感力~河野多惠子と大庭みな子、その夫婦の愛~

『いのち』瀬戸内寂聴 著:講談社

 寂聴さん追悼

 本書『いのち』は2017年刊行、著者95歳の最後の長編小説である。前著『死に支度』同様寂聴さんと、その周りの友人たちの死とその見取りを描いた私小説である。

 最初は、親交があった宇野千代から、画家の岡本太郎とその愛人で秘書のとし子のことが語られ、それから本題である河野多惠子と大庭みな子についての回想が始まる。とりわけ、河野多惠子とは同人誌時代からの友人であり、若かりし頃の思い出が瑞々しい。しかし、この癖があり、とっつきにくくてふてぶてしい多惠子に寂聴さんは振り回されながらも、その才能に惚れ込み、挙句に許してしまう。まるで恋人のように。また大庭みな子も同じようなもので、人一倍自尊心が強く我儘。文壇上においても時代の先頭を行く二人は良くも悪くもライバルで、お互いがお互いを罵り合いながらもその才能を心底では認めているようである。なかなかそこは、常人には理解できない関係ではある。みな子が倒れた時、病室で見舞った寂聴さんに朦朧とした意識のなかで多惠子を罵る場面は凄まじい。大笑いしてしまった。でもその執念にただただ圧倒だ。

 そんな二人の作家たる生き様が面白く、その犬猿の仲の二人の間には必ず寂聴さんがいて、双方ともに好意的な付き合いがあったようだ。そこには寂聴さんの並々ならぬ共感力があったのではなかろうか。だから彼女らは寂聴さんにだけは心を許したのだろうし、その共感力こそ後に僧侶になる為の資質だったに違いない。加えて、様々な人の伝記を書いてきた著者の優れたルポライター的才能を感じてしまう。どこまでも共感の人なのである。

 話を戻すと、読後、多惠子とみな子の二人に決定的なまでの共通点があるのがわかる。それは夫の存在とその夫婦関係で、そこは二人は驚くほど似ている。自己主張が激烈なほどに強く、性にも自由な芸術家の女とその旦那という構図。(まるで寂聴さんの名作「美は乱調にあり」の伊藤野枝と辻潤の関係のようだ)多惠子の夫の市川は画家だが、妻に対してはかなり献身的。途中、妻の才能に嫌気がさして渡米するも、結局多惠子も後追いで海を越える。みな子の夫も負けてはおらず、アラスカで重役の立場を捨てて、妻の秘書となり帰国する。みな子が脳梗塞に倒れ、半身不随になってもその身の回りの世話に明け暮れる。私の奴隷だ、と言ってのけるみな子に凄みを感じるのと同時に、才能ある妻のために傅く夫の献身さが胸を打つ。これも異形ではあるが夫婦の形であり、愛なのかもしれない。

 いつの間にか、河野多惠子と大庭みな子の小説に俄然興味が湧いている。寂聴さんを偲んでと言いながら…これから早速この二人の小説を読もうと思っている自分が居る。それもある意味寂聴さんにしてやられたようであり、また、寂聴さんに対する追悼でもあると、いまは思い始めている。

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