マガジンのカバー画像

掌編小説集『いろごと/されごと』

5
運営しているクリエイター

記事一覧

掌編小説『武蔵野サイクリング』

 落葉樹の隙間から、初夏の日差しが肌を焼く。汗に濡れた肌を、土ぼこりを含んだ風が不快になでていった。  自転車をこぎ始めて間もないというのに、もう息が上がっている。 「榎本さん、ペース落としてくださいよぉ……」  息も絶え絶えに声をかけると、彼女はチラリと振り返って逆にペースを上げた。向こうはクロスバイク、こっちはママチャリ……とは言うものの、女性のこぐ自転車に着いていけないようでは、さすがに情けない。  この真っ直ぐに延々と続く道は、多摩湖自転車道と言うらしい。道幅は四メー

掌編小説『歳上の女性に、可愛がられたい人生でした』

 思わずSNSでつぶやいてしまった。 「歳上の女性に、可愛がられたい人生でした」  過去形で書いたからといって、俺の人生が終わってしまった訳ではない。こんな言い回しが、ネットで流行っているだけのことだ。まだまだこの先も、俺の人生は続いていく……はずだ。  早速フォロアーから、ツッコミの投稿が飛んでくる。 「なんだよ、マザコンだったの?」 「妄想たれ流しかよwww」 「ロリコンじゃなかったんですか?」  マザコンじゃねぇし。妄想サイコーw ロリコンじゃねぇし。フォロアーからの投

掌編小説『弱き者よ汝の名は女なり』

 鏡の前で呟きながら、右手の指先を顎に当てる。そして左手を右肘に添えて、思案に暮れるポーズをとってみる。  ついでに小声で、「キリッ」と擬音も添える。斜めに構えて、上目づかい。鏡の中のワタシ、けっこう凛々しい……。 「行くべきか、行かざるべきか、それが問題だ」  まてまて、ハムレット王子を気取ってみたところで答はでない。  それにわたしゃハムレットなんかより、オムレットの方が好きだね。ふわっふわの生地にたっぷりの生クリーム、イチゴかベリーが添えてあれば最高だ。果物の酸味は

掌編小説『恋の始まりは晴れたり曇ったりの四月のようだ』

 不倫なんてまっぴらごめんだ。今だってまだ、そう思っている。  けれども、好きになってしまったのだから仕方がない。燃え始めた恋の火を消す方法なんて、ワタシは知らない。障害が大きいほどに強く燃え上がるのが、恋の炎というものらしい。パッサパサに乾いていたワタシの恋心はきっと、音を立てて盛大に燃え上がることだろう。  仕事から帰り、ジャケットも脱がずにベッドに倒れ込む。前のオトコと暮らしていた時は手狭に感じていた部屋も、独りになってしまえば何とも広く感じる。  バッグからスマート

掌編小説『アタイを異世界へ連れてって』

 ねぇねぇ、ちょっと聞いてくださいよ。  なに? また愚痴かって? いや、まぁ、愚痴と言えば愚痴のようなモンなんですけどね……。いいからほら、座って、座って。  えっと、何だったかな……そうそう、昨日ね、お仕事に出かけたんですよ、お仕事。  何の仕事かって? わたしゃ死神ですからね。そりゃ、人の魂を抜くのがお仕事ですよ。  えぇ、そりゃもう、できる死神ですからね。スッと魂を抜けば、コロッと死んじまうって寸法で。下手くそな死神だと、こうはいかない。魂を抜くのに四苦八苦、抜かれる