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掌編小説『弱き者よ汝の名は女なり』

 鏡の前で呟きながら、右手の指先を顎に当てる。そして左手を右肘に添えて、思案に暮れるポーズをとってみる。
 ついでに小声で、「キリッ」と擬音も添える。斜めに構えて、上目づかい。鏡の中のワタシ、けっこう凛々しい……。

「行くべきか、行かざるべきか、それが問題だ」

 まてまて、ハムレット王子を気取ってみたところで答はでない。
 それにわたしゃハムレットなんかより、オムレットの方が好きだね。ふわっふわの生地にたっぷりの生クリーム、イチゴかベリーが添えてあれば最高だ。果物の酸味は、オムレットには欠かせない。甘さと酸っぱさの、コントラストが良いのだよ。
 まてよ、生クリームの代わりに、カスタードクリームってのはどうだ。この組み合わせ、美味しそうじゃないか? 試しに今度、作ってみようか……。

 いやいや、まてまて。甘味方面へ現実逃避してる場合じゃない。行くのか、行かないのか、そろそろ決めないと。
 行くのなら、そろそろ部屋を出ようじゃないか。早くしないと、待ち合わせに遅れてしまう。人を待たせるのは、嫌いなんだ。

 まてまて、いやいや、邦彦なんて待たせておけば良いんだよ。
 だいたいアイツは、勝手なんだ。いまさら「逢いたい」なんて言われたって、「なに言ってんのよ。ふったのは、あなたの方でしょうに」って感じだし、昨日の電話でも実際、同じようなやり取りをした。
 待たせるどころか、もう、すっぽかしちゃえば良いんだよ。

 朝、目が醒めてから、掃除をしながら、洗濯をしながら、ずっと考えていた。
 三月にしては寒いけど、いいお天気。絶好の家事日和って事も手伝って、考え事をしながらの家事は大いにはかどり、部屋中がピカピカになったし、洗濯物もぜんぶ片付いてしまった。

 早めのお昼を済ませて、身支度を整えて、出発の時間が迫っているというのに、まだ答を出しあぐねている。玄関前の鏡に向かって、メイクの最終チェックをする段になっても……だ。

 そもそも、どうして今ごろになって連絡をよこしたのか。別れてもう、三年も経つというのに。
 二人で過ごした時間と、同じだけの時間を独りで過ごした。言い寄る男が、居なかった訳じゃない。口説かれるようなことが、なかった訳じゃない。そりゃ口説かれりゃ悪い気はしないし、時には勢い余って肌を重ねるような事だってあったのだけれど、付き合うのかというと話は別で、どうしてもそんな気分にはなれず、三年という時間を独りで過ごしている。

 親しい友人は、「二十七歳にして、すでに女が枯れたか」なんて軽口を言うのだけれど、決して枯れてしまった訳ではなくて、同じ時間を共有したい相手は邦彦だけで、他の誰かじゃないって事なのだろう……癪《しゃく》だけどね。

 だいたい、別れる理由からして気に入らない。「なんとなく」って何なのよ。
 いや、本当は解るよ? 感性が似ている二人だから、それに三年も付き合っていたのだから、考えてることはだいたい解ります。
 ワタシたち、安定し過ぎちゃったよね。

 分かたれた半身に巡り会えた気分……なんて言うと、詩的すぎるかな? 
 男性と女性が人生をシェアするにおいて、感性が似ているってのはとても大事なことだとワタシは考えている。同じものを見て、同じように感じられるって、素敵な事じゃない?

 六年前に邦彦と出会った時、初対面なのに古い友人に再会したような、なんだか懐かしくて不思議な感覚だった。ワタシと同じように感じられて、ワタシと同じように考えられる人だと判って、さらなる親近感を覚えた。
 いつの間にか、そうなるのが当然かのように付き合い始めて、本当に「分かたれた半身に巡り会えた」ような、感動を味わったものだ。

 しかし、どんな感動でも、どんな悲しみでも、残酷に風化させてしまうのが時の流れ。三年という時間は、二人の間に倦怠をもたらした。
 ワタシは、それを良しとした。完全な安定期に入ったと思ったし、この調子でこの先の人生も二人でシェアしていくんだろうと考えていた。

 でも、邦彦は違った。平穏よりも、波乱を求めた。
 ワタシと二人、起伏のない平坦な道を歩いていくより、坂を登ったり崖を転がり落ちたりしながらドラマチックに駆けずり回りたいと考えたのだろう。

 その結果、別れる理由が「なんとなく」。
 不満があって別れたい訳じゃない。むしろ不満がなかったからこそ、「なんとなく」としか理由を表現しようがないままに別れ話を切り出したのだ。

 決定的なところで考え方が違うように見えるけど、実はそうでもなかったりするのだから困ったものだ。
 「なんとなく」なんて理不尽な理由を受け入れたワタシだって、結局は同じように波乱を求めている部分があったんだと思う。
 邦彦だって、「なんとなく」なんて曖昧な理由を振りかざした裏には、この平穏がずっと続いてほしいという願望が、少なからずあったはずだ。

 結局は、似た者同士なのだ。

「ワタシと別れても、また帰ってくると思うよ?」
「帰ってなんか来ないさ」
「いいや、帰ってくるね。ワタシ以上に邦彦を理解できる女性なんて居ないもん」
「じゃ、もしも帰ってきたら、また付き合ってくれる?」
「いやー、無理かな。ワタシを手放したこと、ずっと後悔しながら生きていきなよ」

 これは三年前のワタシの、精一杯の虚勢。
 もちろん、本当に後悔してほしい訳じゃない。

 邦彦が、ワタシの事をどう思おうが構わない。ワタシが邦彦のことを好きで居ること、その気持こそが大切なのだから。
 おそらく今でも、邦彦を思うワタシの気持ちは変わっていない。

 だからこそ、迷うのだ。行くべきか、行かざるべきか……。

 行けばきっと、邦彦の顔を見てしまえばきっと、再び元の鞘に収まりたくなるに決まっている。なんたって分かたれた半身と、再び出逢うのだから……。
 でもそれじゃ、精一杯の虚勢を張って邦彦を見送った三年前のワタシが、あまりにも可愛そうじゃないか。半身を失い、喪失感を耐え忍んできたワタシが、あまりにも滑稽じゃないか。

 行かなければきっと、なぜ行かなかったのかと後悔の念にさいなまれるだろう。また二人で同じ時間を過ごせるかもしれないのに、その機会を失ってしまう事に耐えられる自信がない。

 三年前のワタシ、今のワタシ、これからのワタシ……理論的に考えれば、将来の可能性に賭けるべきだ。過去は変えられないけど、未来は自分で選び取ることができるのだから。この先の人生が、楽しいものになる選択をするべきだ。
 だけど感情が簡単には、それを許してくれない。ワタシってば、こんなに自分に執着する性格だったっけか……。

『弱き者よ汝の名は女なり』

 ハムレットの台詞が頭をよぎる。母が夫の死後間もなく、夫の弟と結婚したことを嘆いた台詞。女性の心変わりの早さをなげいた台詞。
 残念ながら、ワタシはそんなに弱くない。三年も気持ちを維持できる程度には強い。邦彦の想いがどうであれ、自分の気持を維持できる程度には強い。
 強くしなやかでありたい……いつもそう願っている。

「ねぇ、邦彦。ワタシの言っていたこと、本当だったでしょ? 人生に必要なのは、たった一人の理解者なんだよ。同じ感情を分かち合える、パートナーなんだよ。アナタもワタシも、意外と強い。一人でだって生きていける。でもね、邦彦。ワタシたち二人なら、もっと満ち足りた人生を歩くことができる。二人で居るだけで、豊かになることができる……これってとても、素敵なことじゃない?」

 三年の時間をかけて理解した邦彦へ、ワタシはきっとこんな風にトドメの言葉を贈るだろう。
 彼は、どう受け止めるだろう。観念して、ワタシのところへ帰ってくるのだろうか。それとも意地を張って、離れていくのだろうか。

 ま、どっちだっていいよね……邦彦の気持ちは、邦彦のものだ。彼がやりたいように、決めればいい。
 お互いの気持が同じ方向を向けばまた一緒に居られるのだし、そうでなければまた離ればなれになるだけの事だ。そう、それだけの事だ……過去のワタシの事なんて、関係なかったわ。

 鏡に向き、口紅を引き直す。パンプスを履き、バッグを手に取る。玄関で大きく伸びをして、ドアを開ける。そして陽の光に、目を細める。

「さー、いっちょカマしてやるか!」

 まばゆい春の日差しの中へ一歩、足を踏み出した。

(了)

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