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「どこからでも切れることがあるかもしれません」

「こちらがわのどこからでも切れます」が、いつもうまく切れない。
そんな時とてもくやしい。
ちいさな袋に入ったお醤油だったりワサビだったり、つゆだったりするのだけど、「こちらがわのどこからでも切れます」と言われると緊張する。ずいぶん断定的なものいいではないか。

袋の辺の一箇所に切り口があるのが主流だった時代は良かった。「ここからお切りください」と書かれてある切れ目に爪の先っぽを当てて力を入れるとちゃんと切れた。

昨日だってそうだった。3人分の袋ラーメンを作っていて(夫と、二人の息子の分)、付属のスープが「こちらがわのどこからでも切れます」だったのだ。

焦ってはいけない、と思う。こちらの動揺を伝えてしまっては相手にみくびられるかもしれない。なんといっても「こちらがわのどこからでも切れます」と自信を持って書いてあるではないか。万人にひらかれた袋であるはずなのだ。わたしにだってできないわけがない。

3つある袋のまずはひとつを手にとって、ここぞ、というところに力を入れてみる。うんともすんともしない。切れる気配すらない。「どこからでも切れます」といったって、場所による得手不得手があるかもしれない。そこで先ほど力を入れたところより少し上を切ってみる。やはり、切れない。
次第にいまいましい気持ちになってくる。この文章は誤りであると思う。「こちらがわのどこからでも切れることがあるかもしれません」くらいがせいぜい妥当だ。

結局はキッチンばさみで切れ目を入れて、ラーメンのスープをどんぶりに入れることに成功した。


ラーメンを茹でるお湯が沸くのを待っている。鍋には下の方から数え切れない気泡が立ち上っていく。あまりにぎっしり気泡があるので、それをじっと見ていると、これが果ててしまい何かしら恐ろしいことが起こるのではないかと思える。あるいは、ものすごくうれしいことが湧いてくる可能性も考える。どちらにしても、鍋のなかのあぶくのぶくぶくはわたしの中にいっぱいになってしまう。ぶくぶくがあふれる前に麺を茹でないと、それは、もう、ぜんぜんラーメンどころではない。

週末にスーパーに買い物に行けなかったから、ありものの野菜や乾物、缶詰などでほそぼそと料理をしている。ラーメンには最後の卵2個と、数日前に作った焼き豚と、万能ネギを刻んだものと海苔を乗せた。万能ネギは、もう残り1本になっていて、もう疲れ切る寸前の感じがして、その万能感にはだいぶ翳りがあるのだった。

絵に描いたような、刷毛で絵の具をさっと彩色した感じのする青空の日だった。
景気よく日が注いでいる。庭の枯芝のあたりをぼんやり見ていたら、地面がふるふると揺れた。何事かと思うと、そこからよく太ったすずめが5、6羽飛び立って行った。再びすぐそばに降りて、また地面の一部になりながら、わたしにはさっぱり見えない何かをものすごい熱意でつつき続けている。

枯れた草の他には、庭の端には水仙の一叢があり、ところどころ地面に張り付くようにしてたんぽぽが生えている。どこもかしこも日で満ちていて、そううつくしいとは言えない茶色がかった葉や咲きそうなまだ蕾のたんぽぽにもすみからすみまでどこもかしこも日が当たっていた。


そんなあまりある日が満ちていたいちにちも、もちろんちゃんと暮れる。
すると、しだいに「すん」とした気持ちが兆す。
気に入っているマッチを取り出して(子どもがやたらに使わないように、隠してしまってある)、ろうそくに火をつける。このマッチは横山雄さんのデザインで、ここぞという時にしゅっとつけることに決めている。
無事に火がつけられて、おひるまから夕方へ、夕方から夜へのわたしの側にひかりはずっといてくれた。

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