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ひらくこと、ひらかれること

朝起きて着替えて顔を洗ったら、お湯を沸かす。
お湯が沸いたら、白湯を一杯飲む。
あたたかい湯をごくりごくりと飲むと、体のあちこちにその温度が行き渡る。

体のすみずみまで湯が届く。
わたしの体がどこまであるのか、よくわかる。
いつも思ったよりも遠くまでわたしの体はある。
体がずいぶん遠くまで伸びているさまを感じて、わたしは愉快になる。

ところで、わが家では白湯のことは「おぶちゃん」と呼んでいる。
以前、ある地方では白湯のことを「おぶ」と呼ぶと聞いたことがある。
その響きがいいなと思って、それに「ちゃん」をつけて「おぶちゃん」と呼んでみたら定着したのである。

なのでただしくは白湯ならぬ「おぶちゃん」をわたしは飲んで、おぶちゃんはわたしのすみずみまで行き渡る。
おぶちゃんはりっぱだ。
わたしの体の端っこを毎日教えることができるのは、今のところおぶちゃんだけなのだから。

春さきはいろいろひらきやすい。
そういえば今日わたしが電車に乗って出かけたら、ずいぶん人の視線を感じたように思った。
わたしはうっかりひらいているのだろうか。

15年ほど前に、さほど親密でもない人があるとき声をひそめてわたしに言った。
「あなたはひらき過ぎているから、気をつけたほうがいい」

ちょっとびっくりして、そしてもう一人の約束の人がその時に来たから、会話はそれきりだった。
でもその会話はちょっと忘れられなくて、昨日のことのように覚えている。

それ以来わたしは「閉じる」練習をした。
練習の甲斐あって、普段は閉じられるようになり、ちょっと楽になった。
すると今度はひらくことが怖くなった。
ひらいてしまってあらゆるものが入り込んでしまったら、わたしはどうなるのだろうか。

ここのところわたしはひらいていた。
不思議と無防備な感じはしなかった。
しかし次第しだいに不安になってくる。
ひらいていることは危ないのではないか、間違っているのではないか。
たぶんなんというか、一旦ひらいてしまうと、わたしはものすごくひらいてしまうたちなのだ。

おぶちゃんが体をめぐって、わたしの身体の境界がくっきりしたところで、朝ごはんの支度をする。
週の初めにフレンチトーストを焼く。



フレンチトーストには、とてもひらかれた感じがある。
メープルシロップをかけて、粉さとうの雪をまとったフレンチトーストはすごくひらいている。

あさの光の中で、それはほんとうにただ幸福に見える。

ひらかれていることについて、わたしは考える。
考えながら、フレンチトーストを焼く。
たぶんそれは世界との接点のはなしなのだ。
接点は鋭いものなのだろうか。
一点に極まったものなのだろうか。

ほんとうは世界の境界はゆるやかで、そこに触れるということはおぶちゃんが体をめぐるようなことなのだ。
温かみがはっきりとゆきわたり、くきやかにひらかれてゆく。
ひらかれるとは、ほんとうはそういうことなのだ。

フレンチトーストはおいしそうで、たしかにおいしかった。
わたしは自分が食べることよりも、山のようなフレンチトーストをどんどん平らげる子どもによってひらかれると思った。

ひらかれることは、ひらくこと。
ひらくことは、ひらかれること。
春をひらいて、春にひらかれる。
わたしはきっとひらいて、ひらかれる。

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