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Doki Doki Literature Club! のおかげで翻訳の楽しさに気がついた話(ネタバレほぼなし)

英語ネイティブではない俺がSteamで海外ゲームをプレイしていると、言語の壁にぶつかることがある。

そんな時は足りない英語力とネット検索を頼りに自分で翻訳をしていくのだが、プレイしながらの翻訳は時間がかかりゲームに集中出来なくなるので、有志の作った日本語化パッチがある時は積極的に利用するようにしてきた。

そもそも、ゲームを自分の手で翻訳してネット上にアップするようなモチベーションを持っている人間の方が俺よりも上手く翻訳出来るんだから、わざわざ自分で訳す必要なんかないじゃないか。そう考えていた。

しかし、最近そんな俺の偏見を変えるある作品に俺は出会った。

それが「Doki Doki Literature Club!」だ。


このゲームは所謂ノベルゲームというジャンルに属するもので、文章の翻訳の上手い下手はストーリーの面白さに直結する。

当然自分の微妙な英語力を鑑みると日本語化した方が良いのだが、俺はこのゲームをプレイし始めた時に日本語化が出来ることを知らなかったため、自力翻訳を試みることになった。

日常会話の翻訳はなんとか出来ていたのだが、問題になったのは詩の翻訳だった。

本作にはヒロインの書いた詩を見せてもらう場面が何度となくあり、しかも詩の内容はヒロインの内面を理解するのに重要な要素なので、不正確な翻訳は厳禁だ。

しかし、詩は散文と比べるとメタファーや難しい語句が多く、どうしても意味が理解出来ない部分もあった。

特に一部のキャラクターの詩は非常に長く語彙が豊富でしかも筆記体だったためやむなく他の方の翻訳した詩を読むことにした。

だが、この時俺は何故か物足りなさのようなものを感じた。

確かに、その人の翻訳は俺のものよりずっとわかりやすく意味も通っていて、翻訳のクオリティの差は歴然だった。

それでも、自分で頑張って翻訳をしていたときのようなワクワク感、胸の高鳴りのようなものを、誰かが訳した詩を読む時には感じることが出来なかったのだ。

そして俺はようやく理解した。

翻訳は、ただ単に文章を違う言語に理解可能な形で移し替えていくような機械的な作業ではなく、ヒロインを攻略する時のような好奇心と驚きに満ちた行為であるということを。


比喩的な表現では分かりづらいと思うので、例をあげてみようと思う。

日本語ネイティブが日本語の文章を目にしたとする。
よっぽどのことがない限り、数秒以内にその文章の最低限の意味は理解出来るだろう。

しかし、この時目にした文章が母国語ではなかったらどうなるだろうか。
多分、一瞬では文の意味はわからないはずだ。
単語の意味を日本語に変換し、文章を並び替え、違和感のないように整える。
このような過程を踏むと一つの文を理解するのに十数秒~下手したら数分かかることになる。

だが、この徐々に文章がわかるようになっていくことこそが、翻訳の楽しさだと俺は思う。

母国語の文章を読む時は目がすんなりと滑っていくようで、一文の味わいを堪能するには何度も読み返す必要がある。

一方母国語でない文章を読む時は、じっくりと翻訳を進めるおかげで一語一語を噛み締めることが出来るため、初めて文章を読んだ時の印象を損なうことなく詩を楽しむことが出来る。
また、話の流れが変わるような重要な文にたどり着いた時、嫌な予感がしながらも段々と文の意味がわかってくるといったスラっと読めてしまう母国語の文章では起こらないような体験をするのも特徴的だ。

そうして少しずつ詩の全容がわかるようになってくるのと同時に、ヒロインの内面も明らかになってくるので、苦労してヒロインを理解しようとする主人公と同じような気持ちを味わうことも出来る。

つまり、文章を読むという受動的な行為を、翻訳を通じて能動的な行為に変えられるのだ。


もしこれから海外ゲームをやる時に日本語化パッチが見当たらなかったら、あるいは日本語化パッチがあったとしても、自分で翻訳することに挑戦してみて欲しい。

きっと、今までとは違うゲーム体験が出来るはずだ。







モニカカワイイ!



メイクマネー、したいのさ。