Sing Street

本日はシング・ストリートについて。
2016年の作品で、倉敷にいたときDVDで鑑賞したのがもう5年前。

ジョン・カーニーの作品がとても好きで、中でもこの映画が一番好きだ。
メッセージ性がありそうでないというところがその理由だ。

あらすじ自体は非常にシンプルで、言葉を選ばずに言えばなんの変哲もない青春もの。
物語を映画足らしめているのは、ダブリンという街、風景、俳優、そして秀逸な音楽ということになる。

あらすじをありふれたものにすることで、それ以外の映像作品の各要素を際立たせている、という意図があったのかどうかは分からないけれど、おそらくあったのだろう。
カーニー作品は総じてそのような印象を持つ。

観終わったあとに残るのは、さわやかな爽快感。
夢とか憧れとか、青春とか。
そういったものを押し付けず、爽やかに描き出してくれる。

しかし、しばらくすると、爽やかで心地よかった木々のざわめきが、不穏な響きをおびてくる。
それで、あなたはどうするの?と。

カーニー監督の唯一のメッセージがあるとすれば、その一言ではないだろうか。
物語の凡庸は、このためではなかったのではないかという気さえしてくる。

爽やかでありながら、その風が自分の心の内を通り過ぎるとき、水を含んでもやになる。
それは単に、私がうだつの上がらない人間で、いつまでたってもあっちに行ったりこっちを見たり、そんな生き方を繰り返しているからというだけなのかもしれない。
いや、たぶんそうなんだろう。てか、絶対そうだ。

そんなわけで、カーニー監督、あなたの映画が大好きだけれど、本当に申し訳ありません。

ただ、一縷の望みをかけるとすれば、この映画をまた数年後に見返すときに、自分の受け止めがどうなっているかということだ。
5年前は、ただ爽やかで、「自分なりの夢をがんばろう」なんて感想だったように思う。
そして今、監督からの隠されたメッセージを勝手に見出すことができている。
心のもやが晴れているのか、むしろ濃くなっているのか。

分からないけれど、すっきり晴れていてほしくはないな、とも思う、今日このごろである。

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