戻ってほしくない日常

高橋源一郎さんの「楽しい知識」を読んだ。

もう1回、2回と読み直したいと思った本だったが、今感じていることを書き残しておきたいと思う。

この本を読んで、少しはっきりと、自分の中に浮き上がってきたものがある。
それは、タイトルにも書いた、「戻ってきてほしくない日常」だ。

コロナ禍になって、1年半。
始まった頃はフィリピンにいて、そのまま在宅ワークが始まった。
半年後にはオフィス勤務に戻ったけれど、日本に戻ってからまた半年は完全にリモートワーク。
実家にも帰れず、縁のない関東で過ごすこととなった。

こんなに一人でいる時間が続くのは、人生で初めてだ。
これまで以上に、時間を自分のためだけに使う日々が続いた。
それは自由で、楽しいことでもあるが、同時に自分はなんの苦労もなく幸せに生きていることに、一種の後ろめたさを感じ続けてもいて、それは今でも続いている。

そんな時間の中、いろいろなことを考えた。
そして、かつての「日常」に一秒でも早く戻ってきてほしいと願う人々が大半であろうというなかで、この「孤独」がそれほど苦ではない、むしろ自由にさえ感じる自分として、感じることを残したいと思ったのである。
(ここでの、日常に早く戻ってきてほしい人、というのは、コロナ禍で生活が成り立たなくなっている人とは異なる、むしろホワイトカラーでありこの資本主義社会で安定した地位についている、つまりこれまでのあらゆる社会システを温存したいと願う人々のことである)

うまくは整理できないと思うので、羅列してみる。

<戻ってきてほしくない日常>
・無駄な出勤
→人にむやみに会いたくない人にとって、家で働けるというのは本当に救いだ。
・無駄な飲み会
→同上。なぜ、多くの人は、すべての人は自分と同じように飲み屋に行くことが好きだと思い込んでしまうのだろう。あんなに屈託なく、「飲みに行きましょう!」と言われれば、悪気がない分、断れないではないか・・
・オリンピック
→今回のコロナで、オリンピックのこれまで隠されてきた負の側面が浮き彫りになった。利権と矛盾にまみれ、人の命よりも金を露骨に優先させた今回の強行オリンピックによるスポーツ界全体への損失はおそらく取り戻せない。競技が始まると、これまで開催に批判的だったメディアはどう報道するのか。期待はしていないけれど、見ものである。
・あとは、人口縮小社会に対する社会システムデザインへの国民意識の高まり
→今回のコロナ禍で、少子化のペースが10年は進んでしまったとの声もある。オリンピックを起爆剤にした、観光立国化による経済成長という夢物語も、ついに幻となった。このまま万博もカジノもなんの反省もないまま進められれば、日本という国、国民の最大の強みであり弱点である、「都合の悪いことはあっという間に忘却し、新しい神話にとびつく」という真実が決定的となろう。
資本主義の当然の帰結であるといわれる人口減少に対し、この事実に即した社会システムとはどのようなものなのか、国民的議論が高まらない限り、日本は迷走を続け、国力がダダ落ちし続けることだろう。
ここ数十年の経済発展が異常だっただけではあるけれど、そのギャップに、人の心も生活も、追いつくことはできないだろうから、いい加減目を覚まして本気で考えなければならないのだろうけど、その様子は見られない。

以上、なにか分かったような口ぶりで書き連ねてきたが、これらはすべて、日本社会やらなんやらという大きな主体を、自分自身に言い換えて自らに問いかけなければならない。

こんな社会はよくない、こんな偏見は許せない、あるいは、自分自身のこんなところが許せない、嫌だ、と感じるということは、自分自身がその偏った価値観をもって、他者を判断し、価値付けているということだ。
自分にとっての批判や批評は、いまだ、自分がそうありたいという願望の域を出ないでいるからである。

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