見出し画像

常設展の歩き方

 ミュージアム(美術館・博物館)の行う展覧会には「企画展(特別展)」の他に、「常設展(所蔵品展)」と呼ばれるものがある。企画展のように特定のテーマ、数週間〜数カ月間といった期限を設けず、いつでも見ることができる展覧会のことであり、その多くはミュージアムの所蔵する作品・資料が展示されることとなる。テーマ性も企画展に比べると抽象的だったり、そこまではっきりとしたテーマが設定されていないことも多い。
 東京都美術館や国立新美術館、上野の森美術館など、所蔵資料を持たないミュージアム、また所蔵資料がありつつも常設展示を行っていないミュージアムも中には存在するが、それなりの規模の美術館があれば、何かしらの常設展を持っていることが一般的であると言える(都美・新美は常設展が無い代わり、公募展が充実している)。

 企画展に比べると常設展はあまり注目されないことが多い。集客数から考えても訪問者の大半は企画展を観にミュージアムまで来ているわけで、常設展無料、または企画展の半券で常設展に入れると聞いたとしても、積極的に常設展を訪れよう!とはあまりならないのかもしれない。

 普通ならここで「常設展、行かないと損ですよ!」などと、もう少し攻撃的な口調で煽るのが最近のインターネットの常道なんだろうけど、結論から言えばそんなことは全くない。ミュージアムをどう楽しむかは他人ではなく自分で決めるべきで、その結果として「企画展のみを楽しむ」というのも、選択肢として担保されていないとむしろおかしい。
 ここでは、ミュージアムのちょっとだけディープな楽しみ方の選択肢として、「常設展」を紹介するにとどめたい。この記事に限らず、ここで紹介するのは全て「私の方法」である。他の方も紹介しているだろう手法を参考にしたうえで、あなたはあなたのダンスを踊れば良い。

興味のあるものに集中する

 常設展は企画展と違い、何が展示されているか、情報が比較的乏しいことのほうが多い(企画展ではインターネット上で作品リストが配布されているのに対し、常設展では配布されていないなど)。そのため、企画展であれば可能な「予習」みたいなことが基本的にできず、鑑賞者によってはAは好きだけどBはわからない、またAもBもわかるけど、Cはちょっと意味不明…というような現象が企画展以上に起こりうる。

 企画展と同様、一つ一つの作品にじっくり時間をかけ、なるべく多くを理解しようとする姿勢で臨むのも悪くはないのだけれど、企画展と同等、あるいはそれ以上に作品数があり、かつ観る側の知識不足が顕著な状況だと捌ききれないというようなことも十分に起こりうる。1-2時間企画展を観た後で、単純に疲れている、お腹が空いているなんていうこともよくあることだ。
 そこでは混雑時と同様、興味のある作品をつまみ食い的に鑑賞する、という手法を取ったりもすることも多い。ここは一部前回の投稿と重複するので、記事リンクを観ていただければと思う。

美術館の雰囲気を楽しむ

 その一方で、AもBもCもよくわからない…なんていうこともある。そういう場合、常設展に行くこと自体が無駄…とは全く思っていなくて、たとえば東京国立博物館のような建物自体に魅力のあるミュージアムの場合、作品をつぶさに鑑賞しなくても、歩いているだけでも十分に楽しい。物にアドバンテージが無かったとしても、混雑していて気忙しい企画展よりも常設展のほうが遥かに静かで、こちらのほうが雰囲気としてはミュージアムらしい雰囲気が味わえる。

 常設展で言えば、東京国立博物館の東洋館・法隆寺宝物館などがそうだろうか。特に前者はアジア史に関連した芸術作品・資料の展示を主とし、世界史が苦手科目だった私個人としては知識が追いつかないところもあるが、それにしては訪問する回数も多いような気がする。東洋館の魅力については山口晃も指摘していたような気がするが、ミュージアムにとって「静かさ」というのはセールス(?)ポイントとも言える、一つの大きな魅力であると思う。そういうミュージアムの魅力を味わえるのも常設展である。

 コロナ禍の影響なのか、展示室内の椅子を減らしているケースも最近は散見されるが、単純に休憩所として常設展示室を使うというような方法もあると思う。なんとなくで観ていられる風景画や抽象絵画の前で、ゆっくりと足を休める…という使い方をしても全然差し支えないと思う。

作品と「再会」する

 常設展のもう一つの楽しみは、以前企画展でメインを張っていたような作品と「再会」できるところである。
 たとえば国立西洋美術館の企画展で公開されたモネの"失われかけた"大作《睡蓮、柳の反映》(1916)は展覧会終了後、1年半の休館を挟みつつもおそらく2年ほど常設展示室にて展示されていた(これを書いている2023/11/21時点では展示されておらず)。

 私にとっての、そしておそらくこれを手に入れた国立西洋美術館にとっても「心臓」のような作品であり、企画展よりも長い時間、この作品を楽しむことができた。企画展のときは長くてもせいぜい数分というところだが、一回の最長で言えば45分ぐらい、この作品の前に座っていたことがあるだろうか。
 同様に、東京都美術館で開催されていた企画展で出くわした伊藤若冲《乗興舟》(1767頃)も後に、千葉市美術館の常設展示で出会うことができた。これら二つの作品に関しては撮影が許可されていたことも嬉しい(当時、現在はルール変更の可能性もあるため、パネルや係員の指示をご確認ください)。

 以上は企画展で観た作品と常設展で「再会」したケースだが、逆に常設展で観た作品を後ほど別の企画展で「再会」する、ということも当然ある。それは比喩的な意味の再会にとどまらず、照明の違い、あるいは人生経験の蓄積などにより、常設展で観ていたときとは違う印象をもって受け止めることがある。
 個人的には、平塚市美術館で(おそらくだが)観ていただろう鳥海青児《水田》がそうだった。下のリンクにある画像を観て、この作品を素晴らしいものだと思う人は正直なところ、そうそういないだろうと思う。

 しかし、これが東京ステーションギャラリーの企画展にこれが展示されたとき、まるで氾濫した濁流のような迫力に、「鳥海青児ってこんなに凄い作家だったのか」と、思わず圧倒されてしまった。

 単純な話で、常設展にも出かけるようになると、(しっかり観ていなかったとしても)自分の頭の中にある、実際に観たことのある作品のストック数というものも増えていくことになる。そういう意味では常設展示に行くことは長期的な意味での予習でもあって、その印象の違いを楽しむのもまた一つの楽しみである。


 

 もちろん、「常設展は行かない」ということも一人の個人による、一つの判断として尊重されるべきではあるけど、食わず嫌いのままそういう判断をされてしまうのも少し悲しい気がして、今回文章を書いてみた。
 同時に、美術館通いを始めるなかで、「常設展に足を運ぶようになる」というのは初心者のステップをうっすらと抜け出し、次のステップに入ってきたということだと思う。もちろんそれは同じ趣味を持つ人間として歓迎するのと同時に、企画展にしか行かない利用者・鑑賞者を「へへーん」と、見下げるような心持ちになってほしくないとも思う。また新しい美術ファンを迎え入れられるだけの謙虚さを忘れないで欲しいと、筆者としては願うばかりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?