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「作者在廊」

 最近ちょこちょこ話題になるギャラリーストーカーの問題。
 私は直接その現場を目にしたことはないけd… いや、2−3年前、ある人気芸術家の個展を見に行った時、在廊していた作家の動きに合わせて、6-7人程度の「群衆」が動いているなと思ったことがあった。作家さんはただ友達や関係者と駄弁っていただけで、その「群衆」が作品を見ていたかは怪しいところ。大騒ぎになっていたわけではないが、あれがギャラリーストーカーのいちパターンなんだろうとは容易に想像される。
 この問題は今に始まったことでは無く、20年ほど前、ある顔出しをしない漫画家さんでも同じ事案があったと聞いたことがある(伝聞によれば直接カメラを向け、関係者が制止するなど、けっこう悪質だったらしい)。少なくとも20年は続いていると思うと、この問題はかなり根深い。

 もちろん現場レベルとしては、ただ観に来ただけの客だとしても、そういう事案に直面したらもちろん無視せず、適切な対応(当事者の制止・仲裁、係員・警備員の呼び出し等)をしなければならないんだろうと思う。
 しかし、かく偉そうに言う私が今年本厄の「おじさん」なので、私自身がそうならないように注意する必要も出てきている。ストーキングという行為は、往々にして加害者の無自覚によって引き起こされるからだ。

 元々ギャラリーストーカー対策では無かったが、私は作者在廊日を避けることがある。ネット上でこそ文字数多めでやらせてもらっているとは言うものの、そこまで話したがりというわけでもない。ギャラリーに行くのは作者と話すためではなく、作品を観るためなので、作者に会えなかったからと言ってそこまで困るということも無い。
 そして作者在廊の時、お客さんに「どうでしたか?」と話しかけてくる人もいる。もちろん、人としてのノリが合って、素直に楽しめる面白い作品であれば良いが、それを想定して答えを準備しておくのも何かが違う。そして、それ以上に問題なのが、作品が自分の琴線に触れなかったときだ。
「どうでしたか?」
 と聞かれて、
「良かったぁ、ですね…」
 と、自分の気持ちに嘘をつくのもモヤモヤするし、
「ちょっとわからなかったんですが…」
 と、相手に苦い顔をさせるのもちょっと申し訳なく思ってしまう。

 年齢や見た目のことも大きい。私も40歳になって、私より年齢の若い、ともすれば20代のアーティストの展覧会に行く機会もだいぶ当たり前になった。そして、これは蓮見翔さん(コントグループ「ダウ90000」主宰)が以前仰っていたことでもあるが、自分が20代前半の頃を振り返っても、40-50代の「おじさん」は怖い。「怖くないよ」と気さくぶる中年もいなくはないが、私自身、20代の頃は40代の人間は一種の権威的存在、いわば「怖い」存在だった。そこまでポップな見た目をしているわけでもないし、この印象ばかりは避けられない。
 そんな印象の、特に関係性があるわけでも無い人間の
「ちょっとわからなかったんですが…」
 は、おそらくこちらの想像している以上に、攻撃的に響いているんじゃないか。考えすぎかもしれないが、色々考えすぎるぐらいなら…ということで、私はなんとなく作者在廊を避けるようになった。なってしまったと言うべきか。

 以上はあくまでも私の選択である。もちろん読者に対し「作者在廊日を避けろ」などと言う気は微塵もない。

 ただ、人によっては作品もほとんど見ず、作者をおだてるためだけに「よかったよ」と言う人もいれば、自分がわからない、ともすればわかる努力さえしていないものを、なんなら聞かれてすらいないのに「つまらない」とわざわざ舌禍を引き起こす人もいることは承知している。
 後者はまだしも、前者に関しては誰も傷ついていないようにも見えるが、作品は芸術家にとって一番大事な仕事で、それをちゃんと見たうえで「褒める」のと無根拠に「おだてる」のではまるで意味が違う。基本的にはどちらも「止めよう」の一言だ。
 しかし、それでも止めないなら、制度・仕組み(イベントやギャラリーとしてのルール、悪質な場合は条例・法律など)として止めさせるしかない。確かに理想としては当事者間で自主的に解決すべきことで、好ましくない選択肢ではあるが…こういう時、私は福澤諭吉の言葉を思い出す。

西洋のことわざ「愚民の上にからき政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招くわざわいなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。

福澤諭吉『学問のすすめ 初編』より、太字は引用者


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