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「文芸の未来」について話す時に立ち止まって考えたいこと

承前

1.

1-1.


江永さんの問いかけは、文章芸術が「コンテンポラリー・アート」に近づく流れが生じ(てい)るかもしれない、ということでした。

ボリス・グロイス(1947-)は東ドイツ出身の美術批評家で、旧ソ連でインディーの批評活動を行うなかで、「アートの終わり」をめぐって共産主義体制下の官製芸術市場を論じ、「社会主義リアリズムがむしろロシア・アヴァンギャルドの精神を継承したものであるというきわめて斬新かつ衝撃的なテーゼを提唱」(出所:URL)した人物……だと、さっき初めて知りました。

近い主張はここ数年でも耳にしたことがあります。「戦争詩がモダニズム詩の技術的理念を達成したのではないか」とか、「ダークウェブやトランピズムにポストモダニズム思想の顕現をみる」といった姿勢とも、いくらか重なりそうです。

それでいくつか公開資料を読んでみたところ、「新しさについて」(鷲田めるろ訳)(『アート・パワー』(2017)所収)には、ちょっと昔のじぶん(=笠井)がいかにも言いそうなことを書いてある。

ここ(引用者注:美術館)では、新しさは、他者の再現としてや、不明瞭なものを明瞭化する連続的な過程の次の段階として機能するわけではなく、むしろ、不明瞭なものが不明瞭であり、現実的な物とシミュレートされた物の差異は曖昧なままであり、物の耐久性は常に危機に直面しており、物の内的な本質について永遠に疑い続けることは克服できない、といったことを新たに思い起こさせるものとして機能するのだ。

「新らしさについて」(鷲田めるろ訳)

1-2.

我流の理解を自論に結びつけるなら、「これは(任意の芸術名)である/ではない」と語り合うことが許される、そういう「お約束」の通じる場所が社会にはあって、その「お約束」は制度、コード、ルール、文脈、慣習などと言い換えられる。もしくは簡単に「文化」だと言ってもいい。

「文化」の内輪に持ち込まれた「もの」は、それがなんであれ「文化」のなかで「作品である/ではない」と語り合える。「文化」はその場所に保存されたアーカイヴと、それらが遵守/違反する有形無形の「線引き」によって生まれ、知られ、守られる。その場所は、今風にいえば文化施設であり、アートマーケットであり、コンテンツ産業であり、さらに抽象化すればなら「母語/母国/ふるさと」を意味さえする。

その「線引き」こそが、その場所で生産され、流通し、取引され、消費される作品ごとの「ちがい」を分からせてくれる。すでにある「お約束」の「線引き」を見直すことにも役立つ。それ以上でも以下でもないけど、かといって無意味でも無価値でもない。

お笑い芸人がバラエティ番組で、親交の少ない共演者に強く当たると楽屋裏で諫められるように(「絆のない子を叩いちゃダメ」(今田耕司))、その「お約束」は僕たちの暮らしを「本番」と「オフ」に区別する働きを持っていて、「本番」でいくら「変なこと」を試みても「ネタ(芸能)」だと受け止めてくれる。

その対比として「ガチ」「放送事故」があって、それらを誘発する手つきは「演出~仕込み~やらせ」といったグラデーションのなかで解釈され、視聴される。その「お約束」はしばしば「いじめ(侮辱)/いじり(悪ふざけ)」の見分けをつかなくするけれど、生きあぐねた「はずれもの」や「ならずもの」が遊んで暮らせる暗がりでもあった(上岡龍太郎の警句を引くなら、「売れればね」)。

1-2.

かたや「新しさ」は「ちがい」とはちがって、「文化」の内輪にある「もの」はいつか壊れて消えてしまうこと、「文化」の外側に「まだ知らない、よく分からないもの」があると気づかせてくれる。「新しさ」には(内輪の)意味もなければ、価値もない。経済的にいえば「市場経済」の外にあるし、政治的にいえば「再分配の宛先」にならない。光も届かないなら、明暗すらない。通信圏外。オフライン。

その「新しさ」が価値を持つには、「文化」の「ちがい」をめぐる争いにどうにか加わって、より明るい場所で「線引き」の見直しを勝ち取らなければならない。でも、そのとき、その「新しさ」は「新しさ」ではなくなる。無視されるよりはマシになるけど、「文化」の存続は揺るがないどころか、かえって強くなるばかりかもしれない。定着した「元-新しさ」の居心地も保証されない。かえってひどくなることもある。

「超民主制としてのコンテンポラリー・アート」(2017)は、どうもこういう話のその先で、現代芸術の役割を擁護しようとしています。

「民主的な」はずの国家のあちこちで権威主義や保守反動、排外意識の強まる時流にあって、コンテンポラリー・アート(現代芸術)は、「特定の国の言語に対する依存度が低いため、制作においても配信においても、他の文化メディアと比べれば、特定の国の聴衆に依存しないで済むし、特定の集団の期待に応える必要もない」(出所:同書より)

だからコンテンポラリー・アート(現代芸術)は、アイデンティティ・ポリティクス(特定の集団の利害を代弁する政治活動)に対抗できる、世間から独立した場所であり続けているとボリスはいう。

「そうかなぁ」と僕は思う。

1-3.

というのも、この論文が公表された数年後に起きた、「あいちトリエンナーレ2019」の騒動や「ARTS for the future!事業」の混乱をみていると、対抗できる「気がしてた」だけかもしれないと思わされるのです。

諸芸術の独立性が日本語圏で保てなくなるおそれがある。そのリスクは複数の「文化」の内側で広く共有されているでしょうし、諸文化それぞれで(たとえやむをえずとも)自文化の利害の代弁が、すでにしてくり広げられているようにも見えます。

福尾匠さんが「補助金分割統治」と呼んだように(出所:URL)、(文化行政という、これもまたひとつの)「文化」の内側で、(諸芸術の)「ちがい」の「見直し」を求める動きがあるのは、その場所を訪ねるための「入場券」がまともに「売れない」からですよね(象徴的にも、会計的にも)。「しばらく開かれそうもない空間」で取り扱われる諸作に、「ちがい」はおろか、「新しさ」を求めるのも無体な話です。

それでも共感的に読めば、災厄が起きる前に書かれたこの記事の狙いは、そうした「特定の国」の問題をさらに超越する抽象的な理念として、「超民主的」な「普遍的でグローバルな文化圏」の存続を期待することにあったのでしょう。斟酌するに、現代美術の世界が、「文化」の「ちがい」ではなく、「新しさ」をもたらす場所であってほしいのだ、と自他を鼓舞するようにも読める。そしてまた、「そうありたい」と願う表現の担い手が、日本語圏のあちこちでも増えているのかもしれません(未調査)。

そうした時流を受けた――これは僕の勝手な想像ですが――江永さんの問いかけは、文章芸術が「コンテンポラリー・アート」に近づく流れが生じ(てい)るかもしれない、ということだと受け止めました。

次はこの問いを少し掘り下げてみます。話の見通しをつけるために、(広義の)文章芸術と(狭義の)文章芸術の区別を再点検するところから。

(つづく)


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