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市川『倒産ストリート』、見捨てられた商店街に見る残念な人々。

千葉県市川市に、私が『倒産ストリート』と名付けている”元”商店街がある。随分前には、多少の老舗も八百屋も日用品店もあった場所で、ここ数年、閉店が相次ぎ、店舗の姿を残したまま、静かに消滅していく、哀れな街だ。

散歩ルートの一つでもあるが、なぜこの様な集客が消えた商店街になったのか、その場所は立地的に悪くない場所でもある。

そこで、ふと思ったのが、大型商業施設のチェーンストア理論を思い出し、ここはそういった近年の商売を知らないんだなと、私は理解した。

アメリカで生まれた経営手法であり、あらゆる企業活動を中央集権的に本社(本部)へ集中させて、店舗(現場)ではオペレーションに専念することで経営効率をあげるというチェーンストア理論は、実は小さな個人店でも応用できる。

簡単な話この元商店街は、店同士が「個」であって、「連携」がない。単発的にコーヒーショップ、工務店、コンビニがあったとして、その中に老舗があったりと、街に行きたい動機ではなく、点在する店に用事がある人しか人は来ない。

そもそも集客とは、店の存在が多くの人に知られて初めて購買欲が得られるものだ。その地域の需要だけでは、何十年も経過すれば、その周辺の世帯層はやがて変わる。まして、駅前の大規模スーパー、ニトリのような大型家具店など、商品の充実度は、規模次第で希望する目的の商品を見つけやすい。

だが、これは従来、日本にもあった。それが商店街内である互助会のような『商店会』である。似たような店が集中しても、それぞれが重複せず、かつ価格はこの集団が決める。


言ってみれば、個人商店が個で続けるのは終末になった衰退の一歩手前まで来てしまったということだ。大型商業施設は、場所だけを提供しているわけではない。キチンと客層を見据えて、それぞれの階に出店ブースに何を置くかを決めている。

消費者にターゲットを絞る、消費者側に価格決定権を与えるのは、消耗品や食品だ。1円でも安い方へ人は動く。一方、個人商店の役割は何か?それは専門性ではない。特異性である。単発的にコーヒーショップ、工務店、コンビニなど、どの街でもある。珍しさは無い。

期待値の低い商店街を目指す顧客など、私の様に用事もなく気ままに散歩している人間だけだろう。しかし、大型商業施設は、必ずしも買いたいものを求めて人が来ているわけではない。

効率と合理性、この2つは時間を短くし、移動と選択も狭い範囲で行える。つまり、大型商業施設は、商店街をずっと小さく、しかも過密に集中させることで、競争意識と比較検討しながら、常に商品を入れ替えているのだ。季節毎に同じ商品が並ぶことはない。

こうしたトレンドを把握するには、店に来る顧客を眺めてもわかるはずはないのだ。情報を集約し、精査し、面白そうな何かを見つけるには、一度職場から離れる必要がある。これがチェーンストア理論の根底にある。販売員が直接世の中のトレンドなど店にいてわかるはずないのだ。

しかし、『倒産ストリート』の残された店は、意味もわからず努力がいつか報われると信じている。これは哀れだ。しかし同情の余地はない。

今までと同じ手法で客が減るなら、問題点は幾つかあるはずだ。自分のビジネスが周囲と無関係なら、関連のありそうな立地に移動しても良いだろう。あるいは、2つの商売がセットで展開してもいい。いずれにせよ、『個』で商売をしても、現代は誰からも見向きもされない。

私が知る個人商店での成功例は、利便性が悪い立地にあった個性的な店たちだ。そこへは数多くのチェーンストアが来ては去っていった。近くに既に利用頻度の高い商業施設があるからだった。

だが、そこへコンビニエンスが去った後、宅配弁当店がひっそり店の抜け殻に入るのと同時に、その隣にポツンと小さな雑貨が出店した。オーガニック、ビンテージなどを踏まえた、一定の層には興味をそそる店である。これはそこが商店街でないからこそ、意外な珍しさがあるのだ。この店は既に20年を迎えている。

立地と交通の便が良いからと、いつまでも衰退する町に居座る『倒産ストリート』の店たちと一番違うのは、興味をそそられる特異性がそこにあるからだ。私はそのアパレルと重複する店はあまり知らない。これでも、都内のあらゆる路地を知り尽くしている方である。

『倒産ストリート』のある工務店が、面白い木工のおもちゃをウィンドウに飾っていたので、ちょっと店の人と話をした。しかし、それは無駄だとわかった。彼等は努力を惜しまずコツコツ仕事を続けるだろう。今までどおりに。私は疑問に思う。なぜこんな衰退した住宅地化していく、滅んだ商店街で昔と同じことを続けるのか?と。

住宅街には住宅に必要な需要しか無いにも関わらずなのにだ。近隣がすっかり戸建てに囲まれているなかで、必要とされない商売は悲壮感しかない。

随分前に輸入中古家具のパーツを集めて販売している店があったが、昨日、店はもぬけの殻だった。なぜなのか私はその理由を初めから知っていた。そもそも既に住宅化したその通りの路線価は安く、つまり土地としての魅力も下がった中では、商売をしようにも規模で駅前に負けるのは目に見えている。

現にその住宅化した近隣住民の生活レベルは、既にその商店街が活気があった頃以上に変わってしまったはずだ。

だが、興味をそそられる特異性に気がついていない限りは、今日尋ねた彼等も数年以内に店を畳むだろう。そのよく出来たおもちゃに気がついたのは、その通りを行く人の中では、恐らく私だけだったに違いない。値札も付いておらず、それは近くの幼稚園に提供しているという。結局、それは商売ではなかった。本人たちはそれが宣伝になってると思いこんでるようだが、本職は家具職人らしい。

本来の注文家具では大口を受注できず、一種のボランティアでせっかくの技術を浪費しているのは、悪いがお笑いだと思う。自分達の技術価値を下げてまで小銭を稼ぐ利点はどこにあるのだろうか?

良い物を自負しても方向を間違えれば、無視されるのが常だ。それが人の需要という理不尽さだと私は思う。

対価の無い仕事は趣味であって仕事ではない。彼等は生活と店舗が一体であり、売上が直接自分の生活を直撃するから必死だ。だが、現場を離れトレンドを知る機会はないだろう。そんな暇さえ無いのだ。

これはワーキングプアの発生する要因でもある。時勢に乗るというのは、自分の暮らしを現代に符合させていくことでもある。システムが変われば当然やることも変わって当然だ。

だが繁盛も無ければ、新しいことも出来ないだろう。残念だが既存の事を無駄でもやるしか無いのが本音かもしれない。

彼等が仕事から引退して、人助けが仕事なら話は別だが、とてもではないが私にはそれが商売とは思えなかった。彼等は何を売れば良いかも見失っていると私は感じた。面白さの幅がないのは痛々しい。

私は、この『倒産ストリート』は興味深いし、今後も見続けていくだろうが、それは変容を楽しむ衰退の面白さであって、期待は無い。彼等はどんなに景気が変わろうが、同じ事にしがみついている限り、需要とは無縁の存在だ。また、この商店街は会話を嫌う。面白いことに、商売の楽しさを失っているのだ。つまり、広い歩道のある住宅街に変貌しているのである。もはやその店の存在が邪魔に感じるほどだ。

ある種、自分とは関係の無い病人の行末を見るような感じである。更に言えば、特別擁護老人ホームの入所者を、遠くから眺めているような感じだ。彼等に他人が愛情を注ぐことは永遠にない。ただ、可哀想と思うのみである。私は商売をやり、多くの店を潰してきた。無論、私の店以外の他社を潰してきたのである。私は生き残るためにそうした。当然だと今でも思う。

この冷酷さは今でも持っている。生き残りたいのなら、そうするべきなのが商売では全てだ。それを現代でも否定するのなら、その町は衰退し、やがて突然やってくる黒船によって、駆逐されていくに違いない。それは仕方のないことだ。商売とは初めからそういうものである。


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