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近代社会の「枠」を打ち壊すー「ピピロッティ・リスト あなたの眼はわたしの島」を観て

 東京から水戸は意外と遠い。他の関東の主要都市と違い、都内から一本で行ける普通電車はほぼなく、高速バスでも片道2時間はかかる(首都高で渋滞にハマればそれ以上だ)。ではそこまで苦労して何をしてきたのかと問われると、どうにも返答に困る。なぜなら私はそこが美術館であるにも関わらず、ソファに座ってくつろいだり、ベッドに寝てまどろんだり、まるで自宅にいるかのような気分でいたからだ。

 水戸市の水戸芸術館現代美術ギャラリーで「ピピロッティ・リスト あなたの眼はわたしの島」が開催された(10月17日まで)。実験的な映像表現で80年代より世界各地で作品を発表してきた彼女の、日本では久々の個展だ。最初期の映像作品から最新のインスタレーションまで、彼女の創作活動の全貌をつかむことのできる貴重な機会である。この展覧会の見どころは、なんといっても会場内を一つの作品に見立てるかのような、作品同士の間に含みを持たせる展示構成だろう。その視覚的なスペクタクルはまるでテーマパークのようで、写真映えも申し分ない。だがまずは、この展示の中で最も無機質な空間に観客が追いやられる、初期シングルチャンネル・ヴィデオ作品群に目を向け、彼女の作品に一貫する「枠」への意識について考えていきたい。

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 前述のとおり、このヴィデオ群の展示室には全くの装飾がなく、そのうえ椅子も硬い。そんな厳しい(?)状況下で映し出されるのは、他の展示室の作品にはない異質さをはらむヴィデオだ。例えば《ピッケルポルノ/ニキビみたいなポルノ》(1992)では、12分間延々と身体に過剰に接近した男女の性行為の映像が流される。性行為の一部始終が何もかも画面に映し出され、その際に女性が常に見られる側に立っていることはとても気味が悪い。今作はPG12指定なのだが、これが当時のアダルトビデオの流通を背景に制作されたものであるということを踏まえれば、ある意味当然の話のようにも思えてくる。この種のビデオにおいて、女優は総じて男優の(性的)欲望を満たすための客体であり、またそれを鑑賞する側も、客体としての女性像を要求する。ここで重要なのは、アダルトビデオはその極端な事例にすぎず、例えばラブロマンスやルッキズムなど、[男性-主体=女性-客体]の構図のイメージは近代社会で膨大に製造され続けてきた点だ。そしてこれは結果的に「女性のあるべき姿」や「男性のあるべき姿」、さらには「人間のあるべき姿」という虚構を人々の観念の奥底に植え付けることに繋がる。ピピロッティは、この人々の知覚や行動を男性中心主義的な眼差しによって制限する「枠」の存在を、従来の映像の四角い「枠」として可視化させ、そこからの逸脱と解放を、映像の「枠」を破壊し再構築することで達成しようと試みているようだ。そしてその手段かつ帰結として、彼女のインスタレーションは日常生活の営みへと接近していく。

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 それを象徴するのが、この展覧会における作品鑑賞の姿勢の縛りの少なさだ。映像作品はしばしば、部屋の中に暗室を作りその中に簡易的な椅子を並べることで展示される、いわば仮設の映画館である。この環境下では、鑑賞者は常に椅子に座るか直立不動かで映像を注視することが要求されるし、作品も彼らの姿勢に合わせて視覚や聴覚に訴えかけるようなものに仕上がる。しかしながら今回のリストの展示では、このような体勢で映像鑑賞が求められる場面が前述の初期ヴィデオ作品群の展示室以外にはない。他の展示空間では、例えばソファに座ったり、靴を脱いで座布団の上であぐらをかいたり枕替わりにして横になったり、もしくはベッドの上で寝てみたり、まるで自宅でくつろぐような姿勢で作品を鑑賞することが許されている。また肝心の映像も四角い「枠」にこだわることなく、ダイニングテーブルの上や本の背表紙など日常生活に接続し得る様々な場所や形式で流されている。それ故にリストの作品を鑑賞するにあたっては、映像のみに集中することがほぼ不可能に近い。作品の日常生活への接近により、従来の映像鑑賞のような[見る-見られる]関係性の構図を鑑賞者側が考慮しなくなるからだ。これはすなわち、ヴィデオの生活への解放であり、また従来の“美術鑑賞”の「枠」からの解放である。もしくは逆説的に、生活はヴィデオやそれを見るという行為の男性性という「枠」を可視化する装置であると捉えることもできる。規律による縛りや閉塞感から解放された映像は鑑賞者の精神をも解放し、人間を拘束するあらゆる制度からの一時的な解放の場が、作品を媒介として提供されているのである。

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 最後に再び「枠」のあるヴィデオの話に戻りたいと思う。今回の水戸の展示では、日没から数時間、館外の窓を使って《わたしの草地に分け入って》(2000)の映像が流された。ビルの窓ガラスに対してリストが自身の顔を強く押し付ける様子がビル外のカメラから撮影された作品なのだが、ここで面白いのは、映像が作品と同じ窓ガラスに投影されたことで、まるで水戸芸術館でリアルタイムにパフォーマンスが展開されているように見えてしまう点だ。この観点で鑑賞すると、今作のリストはあたかも懸命に美術館の窓ガラス(もしくは「ガラスの天井」とも言い換えられる?)から脱出しようとする姿にも見える。そしてその姿を目撃するのは、一通りの鑑賞を終えて帰宅の途に就こうとする鑑賞者自身である。もしかするとこの窓ガラスという「枠」を壊すのは、彼女の代表作《Ever Is Over All》(1997)と同様に、窓の外にいる私たち一人ひとりの役目なのかもしれない。

☆画像一覧(作者は全てピピロッティ・リスト/撮影者は全て火星コンピュータ)
ヘッダー画像:《冬の風景》(2021)
画像1:《Ever Is Over All》(1997)
画像2:《4階から穏やかさへ向かって》(2016)
画像3:映像→《わたしの草地に分け入って》(2000)/灯り→《ヒップライト またはおしりの悟り》(2011)


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