見出し画像

コロナで変わった4年間〜無気力人間からの脱却へ〜


はじめに

現在既卒2年目。訳あって学生時代にした事がなかったが、数週間前に就職活動をすることを決めた。それまでの人生は特筆するべきことなどなかった。しかし今日までの4年間で自分はかなり変化した自負がある。自己分析も兼ねて自分の人生を文字に書き起こしてみることにした。

当初はただの自己分析で(自己分析とは何かよくわからないが)誰にも見せるつもりはなかった。書いていたら自伝的になったので、黒歴史になるかもしれないが投稿してみた。

挫折もしたし苦労もしたがあくまでも自分の中の話である。比較をしたら、もっと辛い思いをしている人はごまんといることもわかっている。
これは将来の自分に向けて書いたものだ。記憶は褪せていくものなので、未来の自分がこんなこともあったっけなと思ってくれたら嬉しい。

誕生日が春であり、20歳の誕生日の少し前に起こったコロナウイルスのパンデミックで全てが変わった。良い意味でも悪い意味でも。
その後も日本のシステム的に学年だったりライフステージが変わるのが春ということもあり人生の大きな変換点は誕生日付近に多かった。

度合いは違えど大学生時代の20歳ー22歳の終わりまでは基本的にメンタルに異常があった。診断書はもらっていないが、おそらくコロナうつだった気がする。毎日に絶望し、辛かったがそれでも行動をし続け、家族そして友達のおかげで本当に終わってしまう一歩手前にいたがなんとかここまで来れた。

その中でたくさん失敗したし色々なことをした。この4年間が今後の人生の方針や死生観、価値観を間違いなく形作ったので全ての経験が自分にとって価値のあるものだった。

曖昧な記憶だとある程度脳内でいいように解釈し事実ではないストーリーにしそうなのでそれは避けたい。何を考えていたかわかる日記などがあれば良かったが、自分にそのような習慣はなかったし精神的にも書く余裕はなかった。
しかしLINEを見返せばいいと気づいた。

LINEは日記よりも詳細なその時の自分の生の感情を確認できる。幸運にもLINEでたわいもない会話をできるような友達が何人かいた。いくつかの友達とのトークは機種変更の時に間違って消してしまっていたが、一番会話をしていた友達とのトークは奇跡的に残っていた。このおかげでその時自分は何を思っていたか知ることができた。そのほかにも写真フォルダやカレンダー、自分のスマホに残っている履歴を確認することで詳細にこの4年間を振り返ることができた。

~19歳 無気力

19歳までは自発的に何もせず流されるタイプだった。勉強や運動、趣味などの何かを頑張った事は無く、そして継続できないタイプだった。

小学生の頃だったが、親に暇だから何か面白いことないかと聞いた。普段は怒らない親だがその時は自分で考えて見つけろと怒られたのが一番脳裏に焼き付いている記憶だ。その時は汲み取れなかったが今思えば自発的に考えろと言いたかったのかもしれない。

実家は金持ちというわけではないが貧乏でもなかった。やりたいと言ったことはたいていやらしてくれた(と言いつつも何かやりたいと言ったことは数え切れるくらいしかない)。そして完全な放任主義だった。勉強についても進路(就活をしないということについても)についても何も言われたことはない。

中高は公立でかなり緩かった。勉強は中間テスト、期末テスト寸前に詰め込んでいい点を取るタイプだった。なので成績だけは悪くなかった。

大学受験は高校3年の5月くらいに始めた。本当は推薦で行けるような成績だったが、男子が少人数のクラスで自分以外一般で行こうという結束力が高まっていた。自分も流されて一般受験をした。しかし直前に詰め込んでやるタイプだった自分には合わずゲームばかりしていてあまり勉強はしなかった記憶がある。
本命大学は当然落ち、滑り止めの大学はマーク式テストで勘があたり、合格最低点及び繰り上がりで受かり3月末奇跡的に大学生になった。

そのあとは最初はスタートダッシュに失敗し苦戦するもサークルに入り友達もでき恋愛をしバイトをするような今思えば大学生らしい()輝かしい日々を送っていた。遊び呆け、英語のクラスは中学生の授業をやるような一番下のクラスになった。

当時は本も読まず勉強もしなかった。

20歳前半・変化

大学2年、20歳から人生は大きく変わった。
誕生日の少し前にコロナのパンデミックが起こり、学校もバイトもなく自粛期間に入った。それまで本など読まないような人間だったが、暇すぎたのだろうが読書を始めた。これが変化の始まりだったと思う。何を読めばいいかわからなかったが漫画はもちろん自己啓発本、小説、気になるものは片っ端から読んだ。

自己啓発本の効果で俗にいう意識高い系になった。今では自分はそれを誇っている。なぜなら何でも気になったことはトライしようというクセがついた。馬鹿にされたとしても何も手を動かさないのが一番ダメだ。

その後はブログに興味を持ち自分でサイトを作ったり、動画編集をしたりしていた。しかし結局読書以外はどれも続かなかった。この頃はまだ友達と遊んだりしていたので病むことはなかった気がする。

夏頃だろうか、コロナで休業していたバイトが再開した。その時、バイト先に韓国人の人が短期バイトとして入社してきた。彼は日本に住んで5年といっていたがとても日本語がうまかった。今まで日本生まれ日本育ちの人としか関わったことのなかった自分には衝撃だった。母国語じゃない言葉をペラペラ喋っている姿がとてもかっこよかったのだ。ここで人生のGame Changerの一つである英語に興味を持った。そして資格やテストで点を取りたいということではなく、話せるようになりたいというものだった。

当時周りはTOEICを勉強している人が何人かいた。自分もTOEICをやればよかったのだろうが仮に高得点でも話せるようにはならないと思いTOEICは忌避していた。結局一年後にTOEICを受験することになるが今でも日本のTOEICの持ち上げ方は異常だと思う。しかしTOEICはモチベーションの維持には適していたし、今の自分を作り上げてくれたので感謝している。しかし所謂お勉強をしたくなかった。

結局この時は英語は何もせず興味を持っただけだった。20歳前半は今までの自堕落な自分にちょっと毛が生えた程度ではあるものの色々やってみるクセができ、自分にとって非常に大きい出来事だった(英語は何もしてないが)。この経験はその後本格的に辛くなっていくが、それでも挑戦し続ける土台になった。

捻くれていたのでテストはしたくなかった

20歳後半・メンタル崩壊


2020年8月の終わり、働いていたバイト先が閉店した。
1ヶ月ほど前から言われていたがその間新しいバイトを探していなかったので、家でお金を稼ぎたいとの魂胆でこの時にランサーズやクラウドワークスなどのクラウドソーシングでコンペに参加していた。コンペは例えば企業のキャッチフレーズなどを考えそれが採用されればお金がもらえるというものだった。

その中で企業のロゴを作るというコンペがあり、絵はど素人だが昔から得意だったので、井の中の蛙だったが本気で受かると思い、それまで一度も使ったこともないillustratorで自作ロゴを作っては応募し当然落ちまくっていた。

ある時歯医者のロゴを作るというコンペがあり制作に取り掛かったがこの時”歯”という漢字が本物の歯に見えると思った。その時はただ単にアート作品として面白いと思った。これが後述する漢字アートの源泉になった。

相変わらず本は読んでいて、ある日YouTube経由で新井リオさんの『英語日記BOY』という本に出会った。この本は英語日記を書いて英語を学んでいくという斬新な勉強法を推奨する本であったが、結局自分は継続できなかったのでその勉強法は辞めてしまった。しかしその勉強法というよりは新井さん自身の生き方や価値観に感動してこれは今でも定期的に読む自分の愛読書になった。

今でもたまに読み返す。

この時にまたしても英語を話したいと考えるようになった。そして英語を身につけたら英語圏に留学したいとも思った。
その時に海外では歯並びを気にする風潮があり、歯並びが悪いと言われたことはないがコンプレックスであったこと、さらにマスク社会で隠せるという条件が重なり、ちょうどいいタイミングだと思い、歯列矯正をしたいと考えた。お金がなく、あまり歯並びは悪くないと考えていたので安くてすぐ終わる部分矯正をしようと思った。

その後はとにかく部分矯正専門のような病院にカウンセリングに何度も行った。しかし結局骨格的に全体矯正をするべきとどこでも言われ、その時はお金の面で一旦諦めてしまった。

そしてこのころから昼夜逆転生活を治すことができなくなっていた。日光を浴びなくなり、全てが辛くなり徐々に人生とはなんなのか考えるようなにった。昼夜逆転は本当に直すのが難しい。結果メンタルが崩壊した。
この時は完全に崩壊していて高校一年生の頃から現在もほぼ毎日LINEをしていた友達とさえこの時はしていなかった。朝に寝て夕方に起きていたので誰とも関わらず、大学の授業もほぼ受けていなかった。親にはどうしても相談できずに地獄のような期間だった。

この時の記憶はなくLINEもやっていなかったのであまり思い出せない。
そしてカレンダーやフォルダの履歴を見てみるとどうやらこのメンタルが終わっていた時期に初めての漢字アートを作っていたらしい。おそらくillustratorのお金がもったいないなどという理由で作ったのだろう。それを海外向けにインスタにアップしていた。その後も何個か作ったが誰からもいいねがもらえず、やめてしまった。
それと同時にillustratorは月額が高いと理由づけしてサブスクをやめデザインも辞めてしまった。次に漢字アート自体をを思い出すのは数ヶ月後で実際にまた作るのは3年後である。

初めて作った漢字アートたち


それからしばらくして閉店したバイト先が跡地に関連店舗を期間限定でオープンするらしくそれに誘われたのでまたバイトを始めた。
バイトのおかげで、メンタルは辛かったが徐々に元の生活に戻った。昼夜逆転生活ほどメンタルを簡単に壊すものはない。なら起きればいいじゃんと思うかもしれないが、それができないから苦労するのだ。

この頃に重い腰を上げて英語をようやくやる決心がついた。相変わらず既存の勉強はしたくなくフォニックスの勉強を本やYouTubeを見てしていた。

病んでいて行ってなかった(と言いつつもオンラインだが)大学は未曾有のコロナウイルスのおかげでレポートばかりだったので難なく単位は取れた。

しかし唯一参加する必要がある一番下のクラスの英語だが、残り全てのオンライン授業に参加すれば単位を取れるような状態だった。しかしこの時には英語を本気でやりたく単位をわざと落とした。今思えば、これはかなり大きな決断だった。その時、正直TOEICを勉強したかった。捻くれていたので自分は心の中でTOEICをやる大義名分を探していた。

結論から言うと誤った認識で結局三年の頃再履修で単位を取ったがその時は大学の英語の単位はTOEICで基準の点を取るともらえる勘違いしていた。確か2年後期の成績発表の後だった気がするが、じゃあ単位を取るためにやるしかないよなと自分に言い聞かせ英語の勉強をやっと始める決心をした。そうして近所の本屋に単語帳と参考書を買いに行った。当時の英語力はセンター試験で100ー120点ほど。それもセンター試験前日に見たマークテストのテクニックで。

この頃サークルもゼミも出席をせず除籍になった為(ゼミに所属せず卒論がなくても卒業できる大学だった)青春という意味での大学とのつながりは完全になくなった。大学の友達とはこの頃には疎遠になった。 

もしかしたら2020年のこの頃の大学生は自分と同じような状況の人も多くいたのかもしれない。しかし自分の場合はこの後も孤独を突き進んだ。これがのちにまたメンタルを崩壊させる原因になった。

捻くれている。
内心勉強できて嬉しかった。

21歳・英語、矯正


大学3年、21歳の頃はメンタルは相変わらず不調ではあったが別軸では長い目で見るととても意義のある一年だった。
TOEICの勉強を始めたが、日本語訳をみて英語を覚えるといった既存の勉強法をやろうとすると拒否反応が出るレベルだったので、今思えばかなり馬鹿げているし非効率すぎたが、膨大な時間をかけてでもそれに抗った勉強をしようと考えた。

まずは単語、文法、スピーキングの勉強をした。
単語はまず英英辞典を買いTOEICの単語帳に書いてある700点レベルの英単語を英英辞典で調べ、英語を使って英語を勉強するという方法を実践した。今でもその勉強法は間違ってないと思うが、ベースの英語力がなかった自分には早すぎたためほぼ覚えることはできなかった。

文法はGrammer in Useというアメリカの文法書を使った。かなり優しい英語で書かれていたのでこれは正解だった。

スピーキングに関してはフォニックスをやっていたのであとはアウトプットだと考えオンライン英会話を利用していた。録音した自分の英語を聞くと今でも恥ずかしいくらい下手くそだがその後の留学で海外の友達と遊べるほどの英語にはなった。

洋楽が大好きで毎日洋楽を聴き今でも仕事では英語を使うので多少は英語に触れるが、2024年現在お金と余裕が無く英語を話すことは全くしてない。これはとても良くないことだとはわかっていてやはり言語はアウトプットをしないと忘れる一方である。

文法、スピーキングはいいとして単語の勉強法はとても試行錯誤し、最終的に海外の人が漢字を見て母国語を思い出さずに漢字を学べる漢字アートを作った経験から”イラスト”で英単語を学ぶのはどうかと閃いた。例えばcatという単語を見た時”猫”という日本語を介し理解するのではなくcatのイメージを思い出せれば日本語を介せず覚えられると思ったのだ。

前述したが膨大な時間があり、かつ絵を描くことが好きだったためもう数年前のためうろ覚えだがノート数冊分、派生語も含め1500語以上のイラストを自作した。例えばreluctant という言葉は気怠そうにしている人を描いた。どうしても理解できなかったりイラストだとわかりにくい部分は日本語を頼り、残りは英語かイラストを使った。

自分のためにだけ作ったから他人が見たら理解できないと思う。


完成後単語帳をぶん回し、問題集を解いたら1、2ヶ月ほどでTOEICで750点を取ることができた。
リスニングは勉強をしたことないが、洋楽が大好きなのとオンライン英会話をやっていたためどうにかなったのだと思う。

一個の単語を作るのに、まずネットで意味を調べ複数の意味がある場合はコアの意味を考え、その情景を思い浮かべて作っていたので棒人間などで適当なものを作るとしても早くて数分、長くて数十分かかった。

のちにTANZAMのようなイラストで単語を覚えられるアプリやサイトがあると知ったが自分は自作のものでしか身が入らず単語勉強法のデメリットとしては自分の場合は、新しい単語を覚える時また一から作るのでかなりの時間がかかってしまうということだ。(それに作るプロセス込みでこの勉強法は効果がある気がする)

今でも英語を読むときに日本語を介在させることはあまり無いので少なくともやり方は間違いではないと思っている。しかし自分の文法などの詰め度が足りなかったため、形容詞だったり副詞だったりSVOみたいなのは全く分からないのでフィーリングでやることもあるし、イラストにしたことがない単語は簡単な単語でも分からないのでボキャ貧になることはたくさんある。もっと上のレベルに行くためにはここを改善しなければいけない。

2年の頃はシンプルに病んでいたからだが、この頃から勉強にフォーカスをするため、大学卒業の年の12月ごろまでは誰ともほぼ遊ばず基本的に勉強かバイトかという生活になった。これが大きな失敗で人と関わらない、関わってもバイトなどの業務的なことだけだったので完全に孤独感を感じ、最終的にメンタルクリニックに通っていた。友達と遊んでいればよかったが勉強とお金を優先し切っていた。親には黙っていたが、明細書を見られ結局心配されてしまった。

この時に大学に行く意味が見いだせなくなり、訳あって休学は不可能で退学を考えたが結局せず、(親に止めてもらい)、ずるずる単位は取っていた。

そしてこの時人生を大きく変える矯正も始まろうとしていた。結局時間がかかるが、全体矯正をすることを決めた。値段もお手頃な矯正歯科があったのでそこで矯正を行うことを決めた。
当初歯科医に言われた終わる目安は2年後の2023年6月、ストレートに行けば大学卒業後だ、当時周りに就活をしている人はあまりいなかった気がするし、関わりもなかったので一切気にしていなかった自分は二つ返事で了承した。イコールこの瞬間就活をしないことが確定した。

勉強はともかく就活についても何も親から言われなかったのはメンタルクリニックに行っていることがバレたからな気もする。今の自分の人生観としてはやらない後悔よりやって後悔なので後悔はしていない。孤独でも英語を勉強し続け、この辛い時期があって良かったと思えるような経験をしたかった。

誰とも関わっていなかったので就活の情報を知ることはなかったのは不幸中の幸いだった。もし知っていたら流されて矯正を諦めるか留学を諦めていた気がする。

しかし結果的に2023年6月に終わる見込みと言われた矯正は自分の骨格的に歯が動きにくいのか延長は計3回あった。今では2024年の中頃に終わる見込みらしい。

海外に行くために始めた矯正が影響して海外にいけないのは皮肉にも程があるし、矯正なんて審美目的の場合、富の象徴みたいなとこがあるので何か情けなさを感じてあまり周りにも海外にいけない理由を言えずにいる。(聞かれた時は、嘘ではないので通院が原因で海外に行けないと言っている)

22歳・迷走


2022年は大学最後の年でもあったがだいぶ迷走していたと思う。記憶から消したいようなもう一度やり直したいような。
2022年春頃、英語の勉強もTOEICは公式テストだと830点ほどで非公式のインターネット版みたいなのでは900点を超えていた。オンライン英会話でも話せていたし、簡単な洋書をも読んでいた(一度も見たことのないハリーポッターの洋書を数十時間かけて読んだこともある)。その時は英語力はもうすでにあるのだと”錯覚”していた。

当時自分は小さなコーヒー専門店で働いていた。そこは世界中のコーヒーを取り寄せていた。そこでコーヒーそのものに興味が湧いたため、当時の自分は将来コーヒー産業に携わるかバリスタになりたいと漠然と考えた。(後に矯正終了後にワーキングホリデーに行こうと決めた時、国をオーストラリアに決めたがそれはカフェ大国だったのもある。)

そこで自分は本場中南米でもやっていけるように、そしてサッカーのLa Ligaが好きだったので英語の勉強をやめスペイン語の勉強を始めた。コーヒー産業に関わるにあたって未知の中南米も知っておいた方がいいと考え、同時に中南米の勉強もした(本を読んだだけだったが)。

英語はやめるといっても英語と同じようにスペイン語をスペイン語で学ぶことは不可能だったので、英語を忘れないかつ、日本語を介さないという理由で英語でスペイン語の勉強を始めた。

2022年の春、周りは就活をしている中自分はスペイン語と中南米についての勉強をしていた。今考えるとシュールだが暇な日は大学の図書館に入り浸り、周りは大学の勉強や卒論だったりSPI?のようなテスト勉強をしている中、自分はそれらに1ナノミリも関係がないスペイン語と中南米の勉強をぼっちで自発的にしていた(しかもやった気でいるだけだった)。

秋頃のSIELEというスペイン語のテストを目標にしていたが、結論を言うとスペイン語も中南米の勉強も今でも思い出したくないくらいの大失敗だった。周りと関わっていないとしても頭の片隅には周りがやっていることは想像できていたので辛さを紛らわす、現実逃避のような形でやっていた。なので正直途中からやる気などなかった。後には戻れないという使命感で続けていたので非常に勿体無い期間だった。

しかし結局11月くらいに全て諦め放心期間になっていた。バイトも辞めていた。
絶望の期間だったがその後、12月にFIFAワールドカップが始まり日本戦を見ようと高校の友達たちに誘われた。この時久しぶりに友達と会い、友達の家で観戦し、ワールドカップは心の底から楽しい期間だった。ここで約2年ぶりにまともに友達と関わり、この時やっとなんで自分は辛かったのかわかった。誰とも関わっていなかったためだ。文字にすれば当たり前だがその時の自分は気づいてなかった。気づこうとしなかっただけかもしれないが。

3月、単位は危なげなく取得し終わり、大学の卒業式があった。大学1年の頃の友達とは疎遠になっていてゼミもサークルも辞めていた自分には知り合いなどいなく、行く理由などなかったが、別大学の高校の友達にふざけて連れられ見に行くだけいった。

そこで見たのは全員スーツを着て社会人としての準備が完了しているような、自分が色々一人でやっていた3年間彼らはコロナがありつつも青春を謳歌し、就活を頑張り、仲間と切磋琢磨し社会へと羽ばたいていくのであろう姿だった。
とてもキラキラして見えた。そして自分はもうそのステージへは戻れないのだと感じた。同時に全員がいい意味でも悪い意味でもconformしているような、全員が同じに見えて怖くなった。YouTubeで見た『就活狂想曲』と同じだった。


自分の感性が正しいのかそうでないかなんて答えは無いしわからない。しかし少なくとも3年間ほぼ一人で過ごしていたので当然だがもう今までの自分のコミュニティの中では普通ではなくなっていた。親に敷いてもらった人生のレールから外れたと改めて気づいた瞬間だ。
自分だけ置いてけぼりなような、時間の進み方が違ったような、浦島太郎に近い感覚な気がした。

しかし何もせず大学生活を過ごしていたわけではなく自分には多少の英語力と何事もとりあえずやろうとする精神が身についていた。この時に、日本で生きることの息苦しさを感じ、ワーホリに行き、向こうでの生活を気に入ったら、海外で永住権を取得したいと思っていた。

卒業後、矯正1回目の延長を告げられた。この時の終了見込み時期は2023年11月ごろ、この時は特に何も感じなかった。当時新しいアルバイトをしていたが3月終わりに辞める予定で、その後のワーホリ用の資金繰りのアテがなかったのでいいタイミングだとは思い、淡々と進み4月から給料が高いので、派遣社員として働くことが決まった。

23歳前半、派遣社員

4月から派遣社員として働き始めた
都心のオフィスビルの一室での事務作業だった。就活をしたことがないので社会人というものがよくわからないが、正社員と一緒に働いたし同期もいたし曲がりなりにも社会人生活と思われるものが始まった。

いきなり3年間の代償は出た。大学生活で完全な超夜型になっていて生活リズムもバラバラだったので毎日朝早く起き、職場も近くなかったので満員電車で一時間揺られていく生活になり、ストレスで咳喘息になった。(現在は完治)

しかしそれでも強制的に生活リズムを正して間違いなくメンタル面では気分が良かったのを覚えている。咳喘息などの身体的な不調を除けば社員の方も優しく、同期の方は多種多様で年齢も近い人も一回り違う人もいたが全員仲がよく楽しかった。社員の方によると非常に仲がいい珍しいグループだったらしい。

働いてみて思ったのは海外だと一度就職してから大学に入るという流れも一般的らしいがものすごく腑に落ちた。ある日商品企画のプロジェクトに部分的に参画させてもらった。自分は大学ではマーケティング専攻だった。なので商品企画は大学時代に勉強するべき内容だ。英語(スペイン語も)は勉強したしたくさん本は読んだ、しかし正直まともに大学の勉強はしなかった。大半の文系大学生はそうではないか?この経験を通したことで初めて大学で学ぶことの大切さに気づいた。

なので一度社会人になってから大学に入るという流れが日本でももっと一般的になるべきだと思う。そんなこんなでどんな綺麗事を言っても人は孤独は辛いもので数年ぶりに人と、さらに良い人たちと関われて自分にとって最高の環境だった。

プライベートでも同期や友達と遊ぶようにし2023年前半はかなり楽しい期間だった。孤独を経験して気づいたが自分は人と関わるのは好きなんだと思った。
しかし夏頃、ここで2回目の矯正延長が起きた。次は2024年3月。正直職場に居心地の良さを感じていてこの時もショックは少なかった。

しかし仮に矯正が終わった後すぐに一年いくにしても帰ってくるのは2025年。それに2024年3月なんて矯正を始めた当初に言われた終了時期だと、すでに帰ってきてるであろう時期でもあった。なので永住権を取りたいと漠然に思っていただけのような楽観的な自分でもどうなるか考えたら流石に不安に苛まれた。

利用していた留学エージェントさんに相談したところ一旦短期で行くのはどうかと言われた。向こうはビジネスで言ったのかもしれない、しかし背中を押された気がした。海外に行ったことがないため一年行く前の予行練習になる、矯正的に1ヶ月ほどならいける、お金も貯めてあったので行くことを決心した。

場所はオーストラリアには長期で行くと考えていたので違う場所がいいと思い、カナダのバンクーバーにした。もともと11月に長期で行く予定で10月末に仕事は契約更新があるが、しないと決めていたので実際にせずに辞めた。
この時初めて学生でも社会人でもフリーターでもない肩書のない無職になった。帰国後のことは何も考えてなかったし考えたくなかった。

仲の良かった社員さんや同期には1ヶ月なら休職のほうがいいと言われたり(派遣なので無理だが)上長に相談してあげるよと言われたり最後まで本当にいい人たちだった。迷惑をかけたと思うがまたいつか会いたい。自分にとって3年ぶりのコミュニティだったのだ。

23歳半ば・留学


急いで準備をし、2023年11月半ばにカナダに渡った。
友達に空港まで見送りに来てもらい出国の瞬間の動画を撮られていたが顔は絶望でしかない表情だった。海外経験どころか飛行機にもほぼ乗ったことがなく、23年間実家暮らし、そのうち3年間引きこもり同然でそのあと都会のオフィスビルで働き、その後いきなり異国の地でホームステイをするという自分の脳の処理が追いつかないような経験をすることが確定していた。楽しみと絶望がジェットコースターのように交差していた。

台湾でトランジットがあったので厳密には台湾が初めての海外になった。日本とあまり変わらないなというのが第一印象だがいきなりおばちゃんにSIMカードの使い方について尋ねられた。そこで自分は今日本にはいないということをすぐ実感できた。その後十何時間もかけてバンクーバーに到着した。レインクーバーと呼ばれている割にはいい自分のいる期間はいい天気だった日が多かった。

そしてホームステイが始まった。その家には他の留学生として台湾人二人とメキシコ人そしてもう一人日本人がいた。当初は異国の地に日本人がいるのが不服だったがそんな自分を殴りたいくらいその日本人には感謝している。今までの自分の状況の影響もあるので当たり前だが数日でホームシックになった。しかしその日本人のおかげでかなり救われた。イベント等にも連れて行ってもらいその経験がのちの自分のカナダでの行動につながった。

生活費やらなんやらほぼ全て貯金から切り崩していたので(親には感謝してもしきれないが飛行機代を出してもらった)なるべく節約をしたかったが、留学エージェントのプランに入っていたため語学学校に入学した。

最初は1ヶ月しかいないがせっかく語学学校に行くのだから海外の友達ができるかななど浅はかなことを考えていた。初日の手続きが終わりロビーでくつろいでいると、海外のドラマで出てきそうな陽キャラの集団がギターを弾きながら、そして歌を歌いながらさらにボクシングをしながら教室から出てきて『終わった』と思った。カルチャーショックにも程がある。

引きこもっていた自分にとって難易度が高すぎた。

これは大学一年の時の自分でも怯むはずなので気を取り直し、クラスはいい人がいるだろうと信じいざ授業が始まった。しかしクラス20人のうち17人が日本人のクラスだった。そしてやっていることは大学の時のあの単位を捨てた英語の授業とほとんど同じだった。国が違うだけだった。

結局学校は4,5日でやめた。日本でこれまで英語を一人で勉強していたし、新井リオさんの本にも書いてあったが”英語を学ぶ”という面では語学学校はいらないと薄々思っていて今回それを確信した。語学は自分でどうにでもなる。学費はドブに捨てたようなものだが自分で払ったため迷いはなかった。19歳の時に同じ状況なら絶対無理だった。1ヶ月通い切っただろう。

この時初めて自分は選択肢があるときに自分の意思に従って選択できるようになっていると気づいた。嫌ならやめればいいのだ。もちろん今回の場合は仮に親に払ってもらっていたら躊躇ったかもしれないし誰かに迷惑をかけるなら別かもしれない。今回即やめたのは1ヶ月しかいないためどう考えても無意味な時間だと判断したからだ。長期留学なら日本人だろうがなんだろうが友達を作って楽しむべきだとは思う。しかし自分には時間がなくルームメイトは除き日本人と関わるのはなるべく避けたかった。これだと日本にいるのと変わらない。自分は短い期間で異文化をを感じたかった。

その後の自分を考えると学校を辞めたのはかなりの英断だったのでそうせざるを得ない状況を作った矯正に感謝している。辞めた後は本来学校に行っていた時間はバンクーバーの観光名所にいくか、カフェでオンライン英会話をしていた。家に帰ればルームメイトと会話をしホストファミリーがコロンビア出身だったのでスペイン語も使うことができた。そして一番良かったのはmeet upというものにに参加しまくったことだ。これは友達作りなどを目的にしたイベントで、日本ではランゲージエクスチェンジが中心で定期的に開催されている。カナダでの友達はほぼ全員ここで作った。

ここにはバンクーバーの大学に通っている人やワーホリできている人、国内旅行できている人、交換留学できているひとバンクーバーで働いている現地の人など様々な人がいた。この時語学学校を辞めてよかったと心から感じた。

語学学校に通う人を悪くいうつもりは毛頭ない。しかし語学学校にいる人は当たり前だが英語を学びにきている人たちだった。しかしmeet upでは英語を学んでいる人ではなくネイティブ、ノンネイティブ問わず生きた英語を使っている人と関わることができた。

その中でも一番仲良くなったのは韓国からワーホリで来ている青年だった。彼は韓国でプロデューサーとして働いていたがやめてカナダに永住することを最終目的としてきたらしい。彼も独学で英語を学んでいたし自分の数倍英語がうまかった。すごい波長があったし求職中で暇だったらしいので何度も遊んだ。その中でもディープコーブに二人で行ったのは一生忘れない素晴らしい思い出だ。

そのほかにもホストファミリーとその親戚でクリスマスパーティーをしたが民族や文化の違いをまじまじと感じたしとても貴重な経験だった。総じてやはり短かったが色々な経験をして本当に濃い1ヶ月だった。そうして12月半ば、帰国した。そのあとは漠然と何がしたいかが見えかけていたためそれを確かめたく日本で開催されているランゲージエクスチェンジのmeet upに何度か参加した。

ディープコーブ

23歳後半・漢字アート


カナダに行くまでは日本の生き方に息苦しさを覚え将来は海外で暮らそうと考えていた。その中で日本より治安がいいとも言われるカナダ・バンクーバーへの留学。しかし帰国時には日本を好きになっていた。帰りの飛行機の窓から見た富士山の美しさは今でも鮮明に覚えている。

前提としてバンクーバーもいい場所だった。人もいいし天気のいい日のバンクーバーはかなり心地よかった。しかし母国でバイアスがかかっているにしても、日本より素晴らしい国ははないかとさえ感じている(まだ一国しか行ったことはないが)。

しかし、ここで自分の中で最大のジレンマはそのいくつかの日本の誇れること、例えば治安の良さ、ホスピタリティ、電車が時間通りにくる正確さは自分が息苦しさを感じる原因そのものではないかということだ。

バンクーバーでバスに乗っていたら急に運転手がジュースを買いに行ってくるねと言い、スーパーに入っていきそれが理由で遅延した。日本で起きたらとんでもないことになる。しかしバンクーバーでは誰も気にしていなかったように見えた。日常茶飯事なのかもしれない。店員の態度を見れば日本と比較したらとてつもなく悪い、しかし彼らは楽しそうだ。どっちが生きやすいのか。日本は度が過ぎた自己犠牲精神、同調圧力、色々ある。自分はそれが息苦しい。しかしそれが海外に誇れる日本の良さでもあると気づいた。答えはいまだに自分でもわからない。もっと色々な経験やインプットが必要だと思った。

しかしドラゴンボールやポケモンなどのカルチャーや”日本語”は本当に誇るべきものだと感じたし、日本に興味がある人はたくさんいるのだと気づいた。日本のアニメや漫画を知らない人には会わなかったし、口下手だがそれらのおかげで話を広げることもできた。

そして日本語に関してだが、まずカナダでの友達によく日本語について質問をされ、その都度日本語を教えるのが楽しかったので、かなり漠然とだが日本語を教えるということに興味を感じていた。なので帰国後は2月頃にでもリゾートバイトに行こうと思ってはいたが、それまではmeet upに参加して実際に日本語を学びにきている人と関わっていった。何か感じていたものを明確にしたかった。

meet upに参加し、日本語を学んでいる人はかなりいて国籍もバラバラだったがいろんな人と話せた。そこで一旦日本語に関わることをしてみようと結論づけた。オンライン日本語講師も考えたが日本語を教えるということは一朝一夕でできないようなかなり難しいことだとも気づいたので違う方法を考えた。

その時に、”漢字アート”を思い出した。あれから数年経った今でも面白いアイデアなのではないかと思い、また一旦作ってみることを決意した。illustratorは中々高く、お金があまりなかったのでAdobe frescoという無料アプリで制作を始めた。

この時完全な無職でワーホリのために貯めていた貯金を切り崩しながら生活し、またしても膨大な時間があったので絶対に何か結果を残したかった。デザインに関してもデザインアプリに関してもど素人だったので一旦いきなり自作の完成品である漢字アートを作るのではなく練習が必要だと思った。

経験上、うまくいかずまたすぐ辞めてしまうだろうと考えた自分は、続けるにはまずは楽しまなくてはダメで、そこでまず自分の好きなアーティストの作品を模倣して作ることで脳のドーパミンを出しつつデザインの練習もできるのではないかと考えた。とりあえず1ヶ月はひたすら模倣して作り続けようと決めた。参考にしたのは自分の好きなアーティストであるSimon Poterという現代アーティストと川瀬巴水という浮世絵師の作品などだ。


Simon Poterの模倣
川瀬巴水の模倣
人物画も作った。
そのほかにもカフェにあったイラストなどを模倣して作っていた。


模倣であるが作り方は自分で考案して作ったので誰かに見て欲しく自身のインスタに投稿したところ何人かに褒めてもらえた。ここが続けられた大きいポイントで、自分の作品ではないにもかかわらず、すごく嬉しくこのおかげであらかじめ決めた期間である1ヶ月間ポジティブな気持ちで続けられた。

しかし忘れもしない1月31日、3回目の矯正延長を告げられた。次は2024年半ば、流石にショックだった。仮に終了後に行ったとしたら何歳で帰ってくるのだろうか。当時は何も考えてなかったにしても新卒至上主義の日本でそれを捨てた結果が1ヶ月カナダに行っただけの人になった。それも矯正が理由で。誰に同情してもらえるのだろうか。

矯正歯科医に今のところは恨みはない。2年で終わると言われたものの、矯正の平均期間が2~3年だからその範疇ではあるので納得はできる。安かったが、実は追加料金があるなどというわけでもない。しっかりやってくれている。自分の場合は海外にいきたかったからここまで話がややこしくなっている。だからこそやり場のない怒りと情けなさと悲しさでかなり落ち込んだ。

しかしこの時にはいくつかの漢字アートをすでに作っていて、本気でいけると感じていた。なので可処分時間が勿体無いという理由でリゾートバイトなどをすることをやめ在宅ワークを探していた。英語を使いたかったのでとあるアメリカ企業の仕事を業務委託として、在宅ワークをすることに決めた。契約を結ぶためには、突破しなければならないテストがありその勉強も並行して行っていた。円安の影響もありこの仕事は時給がかなり高かった。この時はこれで稼ぎ、漢字アートも制作し矯正が終わる目処がわかったらビザを取り、オーストラリアに行こうと考えていた。


3年ぶりの漢字アート

いきなり投稿ではなく、SNSで知り合ったアメリカ人の友達、そしてmeet upで仲良くなった日本語学校に通っているポルトガル人の友達に見せた。そこで面白いアイデアだねといってもらえたので、2月初め頃、インスタに投稿を開始した。

最初はもちろんいいいねなどつかなかったが、前回との違いは積極的に見てもらえる工夫をしようということだった。インスタには相互フォローといったフォロワーを増やす方法があるが、本質的には意味はなくただフォロワーの数を増やすものだったのでそれは避けた。自分はある程度自分のアカウントをブランディングしたかったし、絶対に日本語を学んでいる人に役立つと信じていた。

そこで自分のことを日本語コンテンツを発信するクリエイターだと思っているので、アーティストではなく他の日本について発信している人たちを分析した。どんなハッシュタグを使っているか、どの時間帯に投稿しているかを調べた。さらに、あまり良くない手段かもしれなかったが、日本語コンテンツ投稿にいいねしている人を確認し、いいね周りはした。相互フォローはしないので、向こうだけがフォローしてくれれば自分の作品が面白い、また役立っている証拠になると思った。

最初の頃は1日2、3個投稿していたがあまりフォロワーの増加と相関がなかったので投稿は1日1回に落ち着いた。初めはただ作品を投稿していたがコメントなどでで音読みや訓読みを載せてはどうか、さらにその後日本人の発音を知りたいから声もつけてほしいなどとどんどん要望をいただけた。

声を入れてとの要望

その都度作り直し、現在は漢字アートの投稿プラス関連熟語、そして読み方などにふりがな及び音声を付け加えている(最初は自分の声だったがどうしても気持ち悪く今はAI音声にしている)。

現在はこのような形

最初の半月でフォロワーは100人を超え、その後は少額だがダイレクトにペルソナに作品を伝えられるインスタ広告を使ったり、ハッシュタグやおすすめ欄に表示されることが多くなったことで、2024年4月現在は3000人を超えている。これからの目標としてフォロワーは単なる数字で求めるものではないが、もっと色々な人に届いてほしい。今はフォロワー1万人を目指している。そして漢字アート以外の日本語コンテンツも考えていきたい。

色々なコメントをいただけて嬉しい。

24歳・現在

無事テストに受かり2月終わりごろ在宅ワークを始める事ができた。時給は13.5ドル。日本円で2000円だったのでこんな美味しいことがあるのかと最初は喜んだ。
しかし現実はそんな甘くなかった。
時給は高いが業務数が少なくどんなに頑張っても1日2000~4000円しか稼げないものだった。つまりかなり不安定だった。

そしてある程度フォロワーが増えた時にアメリカの作家からデザインを作ってほしいと業務委託の依頼が来た。この時初めて自分は社会のルールがわからない未熟者だと気づいた。報酬の決め方は?何か契約書などはいる?わからなすぎて断ってしまった。クリエイターとして仕事はいつかはしたいと思っていた。しかしその基盤が出来上がっていなかった。調べたら出てくるにしても社会に揉まれる必要性は絶対にあると感じた。仮に今うまくいってもいつか痛い目を見るのは明白だった。

そして貯金も底が見えてきた。かなりまずい。なので社会人になるために就活をするか、バイトをするなりして2024年半ばまで矯正が終わるのを待ちワーホリをするかの決断をしなければならなかった。この時にはワーホリは意味はないというマイナス意見もよく聞くようになっていたし、それに対し反対意見はもちろんあるが間違っていることを言ってるわけではないことも薄々気づいていて辛かった。

本心としてはカナダに行ったおかげで永住したいという気持ちもなくなり就職をするのもいいかとは思った。しかし未来視点で考えてみると一度きりの人生経験としてどうしても長期滞在はしたかった。ライフステージも変わるだろうし10年後にいけるとは限らない。

そんな時にある記事を読んだ。とある会社ではフルリモート推奨なので世界中から働いているというものだった。フルリモート推奨に感動したわけではなく、令和現在こんな多種多様な働き方があるのかと初めて気づいた。目から鱗だった。今まで自分は海外に長期的に滞在する方法として永住を除き、ワーホリか留学しかないと勘違いしていた。アホなのもあるが誰にも相談せずその固定観念で凝り固まっていたので他のやり方を考えていなかった。

前者は金はそこまでいらないがキャリアプランとしては難しい部分はある。後者は莫大なお金がかかる。なのでのちに知ったワーケーションというものや現在のいくつかの企業で行われている働き方は自分にとって第3の海外に行く方法となった。働きながら海外に滞在する。ビザなどの問題で正確には3ヶ月ほどしかいられない場合もあると思うがそこは問題ではなかった。

社会人になったらもうほぼ夢を諦めなければならないと考えていた自分にとって本当に喜ばしかった。とりあえず社会人になることの偏見が払拭され就活をすることに決めた。

普通に就活をした大学生はどのように業界や会社を決めたのだろうか。何人かの友達に聞いてみたところ、安定性、ブランド、給料という意見が多かった。調べてみてもそのような感じだったが、自分はどれもあまりパッとしなかった。

自分はとても稀有な4年間を過ごせた。絶望はしたが成長もした。朱に交われば赤くなるとはよく言ったもので、人間は周りの意見に感化されるものだ。少なくとも3年間は孤独で1年間はレールから外れている。ユニークに生きたことで自分は本当に心の底から大事にしたい価値観ができている。

※ここから先は自分の価値観だ。
仕事をすると考えた時、1日の半分以上を使うわけなのだから、金でも安定でもなくやりがいを最優先したい。人生は有限である。人はいつか死ぬ。この有限性に気付いた時、やりがい以外を優先させる必要などあるのだろうか。

じゃあやりがいとは何か?自分にとってそれは人生を生きていると実感できるものだ。やりがいを感じれれば自己肯定感も高まる。いや自己肯定感を高まるようなことを仕事にすればやりがいを感じるのだろうか?この4年間で最もうまく行ったことといえば漢字アートだ。自分なりに分析した結果、自己肯定感を上げる方法がある程度わかった。自分でもいい、誰かに誇れる、役に立てる結果を出すことだ。

残酷なのはそれには継続が必須だということだ。継続は力なりとは誰が考えた言葉だろうか、本当その通りで継続するしか結果は出ない。宝くじが当たれば誰かに誇れるかもしれない、しかしそれはただの運で継続のプロセスがないのでこれでは自己肯定感は上がらないだろう。

自分の場合は継続するにはfunnyではなくinterestingの方の面白いものでないといけないらしい。甘い考えだとはわかっているがこれは自分の特性上仕方なく、もうそのような人間だと諦めがついた。

何が面白いか調べる方法はない。とにかく興味を持ったらチャレンジする必要があるのだ。チャレンジしていたらいつかその中で面白いものが見つかるはずだ。この4年間でとにかくいろいろやった。読書やブログ開設、動画編集、コンペでキャッチフレーズなどを考えたし、中南米の勉強もデザインも語学もやった。とりあえずやってみた結果、読書、英語とデザインは面白かった。面白いはずのデザインは褒めてもらうと言った外部要因=運も必要だった。

やはり継続はとても難しい。しかし読書は自分の知見を広げ、英語は世界を広げ、漢字アートで人の役に立てたことで、継続は本当に力になると初めて実感できた。なのでこれからは多少継続の難易度は下がるだろう。

そして結果を出すには自分の得意なことでないといけない。20歳以前、たとえば勉強をする時、文字を見ると色が浮かぶことがあったので世界史の言葉や英単語を色で覚えるといった元々独創的、変わっていることをする傾向はあった。しかしこの4年間の経験から自分はクリエイティブな分野が得意だと改めて思った。つまり面白さと得意がマッチした時に人に誇れ、役に立てる結果が出る(自分の場合)。その時自分の自己肯定感は上がり人生は素晴らしくなるのだ。

最後に

20歳の頃に未曾有のパンデミックが起き、孤独になりメンタルが崩壊した。そこからさらに数年孤独を突き進み、色々な事があった4年間だった。しかし結局その経験全てに意味があった。

仮定法で全てが変わったコロナがない4年間を考えてみた。4年間無難に青春を過ごし立派に社会人になっていただろう。一番幸せだったかもしれない。しかし自分の場合は元々何か違和感を感じながら生きていたのでアイデンティティクライシスが5年6年働いたタイミングで起きていた気がする。

その時にはある程度のポジションだったり責任もあったと思うからかなり辛くなっていただろう。このモラトリアム期間で起きたのは奇跡に近い、孤独ではあるが他のストレスはなく真摯に自分に向き合い、立て直すことができたからだ。

人間というのは群れる生き物だ。原始時代では孤独だと死ぬ危険性があったからだ(そんな内容を本で読んだことがある)。しかし自分を知るには孤独もしくは一人になるということは必要不可欠ではないかとは思う。

本当に自分がしたいことは何なのかは挑戦をし、一人で考えることでしか知ることはできない。しかし衣食住に関するストレスや親からたとえば仕事しろ、勉強しろなどというプレッシャーによるストレス。これらがあっては自分に完全に向き合うことはできない。負のスパイラルに完全に落ちるような気がする。自分は幸運にもどちらもなかった。親、そして友達には感謝しても仕切れない。これからの生き様で少しでも恩返しをしたい。

夕日照らすバンクーバーのビーチを一人で歩いている時、無職だというのにとても幸せで満たされていた。孤独だった時の決断や行動がここにつながっていると感じれたからだ。

まだ人生始まったばかりだし、社会にすら出ていない。もっと辛いことも起きると思うがそれでもこの4年間で得たものはかけがえのないものだろう。


この記事が参加している募集

自己紹介

いま始めたいこと

with アドビ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?