Reverse

弁護士Nは性犯罪の被害を受けるが被告である上司は無罪となる。
Nを追い詰めるのは他ならぬ過去の自分だった。

>Prologue

 ひどく寒い一日だった。今日、生まれて初めて弁護士としてではなく、被害を訴える証人として裁判所に向かった。事件の後からショックで仕事には行けていない。抱えていたクライアントは全て同僚に任せることになった。クライアントにも会いたくなかった。裁判所にはもちろん被告であり、所属する弁護士事務所の代表であるKも来る。だから、本当は行きたくない。考えるだけで吐き気を催して、今朝だけでも3回吐いた。もう胃の中は何もなくて、胃液しか出ない。それでも吐き気が収まらなかった。それでも法律に関わる端くれとして、自分に関わる裁判は代理人に任せるのではなくて自分の目で見たかった。もちろん、勝訴すると思っていた。

 帰宅してから体調不良は悪化した。どうやって家に帰ったのかすら覚えていない。布団の中で呆然と天井の一点を見つめる。数々の訴訟で成果を上げてきた報酬で手に入れた、ワンルームマンションのシミひとつない真っ白な壁紙をじっと見ていた。頭の中で裁判官の朗々とした声が響く。

「主文 被告人は無罪」

 無罪、むざい、ムザイ。どんな意味だったか。そのあとの言葉はほとんど頭に入っていない。横に立つ検察官が、やっぱり、といった様子で呆れた顔をしていたのだけはいやに鮮明に覚えている。

 どうして。どうしてあいつが無罪なんだ。あれは、間違いなくレイプだった。上司の誘いを断れず、家に行って、酒を飲んで、潰されて、起きたら縛られていて、無理やりさせられた。どうあがいてもレイプだろう。どうして。どうして。

 俺に落ち度があるって話になるんだ。

>About him

「いやあ、N先生に任せてよかったですよ。若いから心配してましたけど、実績に間違いはなかったですねえ」
「こちらこそ、お役に立ててよかったです。この手の事件は不起訴にすれば前科もつきませんし、息子さんは将来有望ですから、気合が入りましたよ。いずれは僕の後輩ですかね」
「そうなってほしいものですよ。まったく、余計な金ばかりかけさせて。本当はあいつが相手を黙らせられたらこの示談金もいらなかったんですから、つくづく情けないというかなんというか」
「まあ、若気の至りっていうのはよくあることですし。勉強代だと思えば」
「それもそうですね」
 がはは、と恰幅のいい今回のクライエントは大声で笑った。示談成立を告げに行ったため、機嫌がいい。
 このタイプの事件は稼ぎやすい。被疑者の家族が性犯罪の前科をつけたくないから、と金払いが良くなるし、被害者側もなんども同じことを聞かれるの嫌になるから裁判にまで持ち越したくない。だから98%は示談で終わらせられる。被疑者は前科がつかずに、被害者は金がもらえて、俺は報酬と定時帰宅の両方を手に入れられて全員がウィンウィンな案件だ。
  Nに頼めば間違いない、と近隣の大学の保護者間では口コミが広がっているらしい。万々歳だ。
 しかも、大学生の中には学歴だけを手に入れたサルが一定数存在するし、ここ数年は何でもかんでもセクハラになってきているから訴訟を起こそうとする人数も増えている。こちらとしては願ったり叶ったりだ。
 うん、今日はいい酒が飲めるぞ。

「ただいま帰りましたー」
「N先生、お帰りなさい。その顔だとうまくいったみたいですね」
 事務員のSさんは俺より5つ年下の、綺麗な人だ。いつも笑顔で話しかけてくれるのできっと俺に気があるに違いない。顔はそこまでタイプじゃないが、まあそこそこ良い体をしているからやぶさかではない。
「もちろん。相手の落ち度を並べれば、大体がうまくいくんだよ、こういうのは。被害者にも大体問題があるからね。Sさんはそんな人じゃないからわからないかもしれないけど」
 Sさんの顔が少し困ったように歪んだ。ああ、褒められ慣れてないんだ。照れているんだ、可愛いなあ。
「……よくこういう案件ばかり引き受けられますね。嫌になったりしないんですか」
「んー?そりゃあ裁判にしないから派手じゃないし、地味だけどね。稼げるし、勝率はほぼ100%だからね。こういうコツコツするタイプの仕事、俺は嫌いじゃないけどな」
「そうですか……」
 Sさんは黙って、また仕事に戻ってしまった。つまらない。

 仕方なく自分のデスクに戻って、メールのやり取りで新規クライエントと話を進める。次の案件もいつも通りのパターン。私立大学生の息子が勉強もせずにヤリサーに入り浸り。身内だけと遊んでおけば良いものの、酒の勢いで路上で女性に抱きついて、警察がやってきて現行犯。プライドだけはエベレストのように高い親、今回も例に漏れず父親が、子供に前科をつけたくない、と依頼してきた。条件を少しいじっただけのような案件が年がら年中飛び込んでくる。

 馬鹿だよなあ、といつも思う。事件を起こす奴も、そんな馬鹿を必死にかばう家族も、夜中に出歩く女も。ひっきりなしにこんな事件が起きているんだから自衛しなくちゃいけないのは考えるまでもないだろうに。 

 先月の示談相手はそんな馬鹿の典型だった。
「事件の詳細について教えていただけますか」
「……Mがサークルのみんなで飲もう、って話を個チャでしてきたんです。サークルのみんなとは何回も飲んでたから、安心して家に行きました。でも、Mの家には他に誰もいなかったんです」
「そこで帰ろうとは思わなかったんですか」
「Mが後からみんな来る、って言っていたんです」
「でも、酒を飲む必要性はなかったですよね」
「みんな買い出しに行ってるから先に飲もう、って」
「あなたはそれに同意したんですよね」
「飲まなければ、Mの機嫌が悪くなると思ったので。すごく短気だから」
「でも、飲まないという選択肢もあったんですよね」
「……はい」
 Yさんはスカートをぎゅっと握りしめて今にも泣きそうな表情になった。ほら、そうやってすぐ被害者づらする。
「その後も、あなたはMさんに勧められるまま酒を飲んだ、ということは間違いないですよね」
「Mもアルコールが入っており、断ったら怒鳴られる、と思い怖くなって飲んでしまいました」
「でも、飲んだふりとかで回避できたはずですよね」
「それはそうかもしれませんけど……」
「そしてあなたは酔って、Mさんの前で眠ってしまった、ということでよろしいですか」
「……はい」
「MさんはそのときにYさんがスカートを崩して履いていたため、性的なアプローチだと捉えたと証言していますが、」
「そんなことありません!!」
「まあ、誤解されるような行動をした、ということは事実でしょう?」

 Yさんは机をバン、と大きな音で叩いてから、泣き叫び始めた。ああ、めんどくさい。この手の案件で一番めんどくさいのが相手がヒステリックだったときだ。女はすぐヒステリーを起こす。事実を淡々と聞いているだけなのに、すぐにキレる。

 こういうときはとりあえず相手が落ち着くまで待つ。そして追い討ちをかける。

「こういう場合は、あなたに100%非がないって証明できない限りほとんど起訴もできませんよ。今なら向こうは100万出すって言ってるんです。裁判は時間も労力もかかりますし、変に恨み買うよりかはお金もらった方があなたにとっても得でしょう」

 だいたい、この言葉をかけると目から光が消えて、真っ白な顔で示談誓約書に名前を書いて帰っていく。自分がいかに馬鹿だったのか、と気がつく瞬間だ。そして、俺がいかに理路整然としている弁護士か、ということを自覚する瞬間でもある。刑事が自白を引き出すときも多分こんな感覚なんだろう。

 男は狼だ、って知っているはずなのに防衛しないから食われるんだ。3びきのこぶたの末っ子みたいに、レンガの家でしっかり自分を守らないから、食われることになる。ミニスカ履いたり、宅飲みに行ったり、男の前で寝落ちる時点でそれは本人の落ち度だろう。

 さて、ちょうどクライエントからのメールも送信し終わったところで定時だ。女からのアプローチを無視するのは男が廃る、仕方ない。

「Sさん、今日飲みに連れて行ってあげるよ」


>Trial

「それでは証人尋問を始めます。正直にお答えください」
「はい」
「事件の概要について確認します。20××年△月○日、Nさんは上司である被告から誘われて、家に訪れた。そこでアルコールを摂取し、泥酔。眠ってしまい、起きたときには性行為を行なっていた。以上で間違いはないですね」
「はい」
「弁護側の主張としましては、まずNさん側からの同意があったのではないか、という点を追求していきたいと思います」
「同意なんてなかった!」
「それは後からいくらでもでっち上げることができますし、陥れようとしている可能性もあるので、詳しくお聞きしたいのです。あなたも弁護士をやられているのなら、それくらいはお分かりでしょう」
 苛立って仕方がない。同意があったのなら、訴えたりなんてしないのに、こいつらは何を馬鹿なことを言っているんだ。

「第一に、被告の家に行った時点である程度の同意があったと言えます」
「はあ?」
「被告は前々からNさんに対して恋愛感情を抱きアプローチをしていた、と証言をしています。被告からNさんに送られるメールの量は他の同僚と比べて多く、メッセージ内容もプライベートな内容に触れていたり、絵文字の使用率が高いことも、データとして明らかです。またKはわかりやすくアピールをしていたので、家に誘った時点で合意があるのだ、と認識したのは全く無理はありません」
「何を馬鹿なこと言ってるんですか。再三のみに誘われて、断ったら露骨に苛立つのを知っているからしぶしぶ行ったんです。それに私は30歳で、向こうは60も近いんですよ。性的な対象として見られている、と認識できるわけないでしょう」
「それでも、断ることは可能でしたよね。相手のKも弁護士であり、説得は可能であったはずですが」
「付き合いとか、あるでしょう、別に。少し我慢すれば、飲んで終わりだと、普通は思うでしょう」
「危機管理能力が不足していた、ということでよろしいでしょうか」

 証人尋問は明らかにおかしかった。まともな論理が通用しない。どうして被害者であるはずの俺がこれほどまでに責められないといけない?
「酔っ払って眠ってしまったんですよね。タクシー等で帰宅することもできたはずですが」
「少し眠って酔いを醒まそうと思っていただけです」
「わざわざ服を脱いでですか?」
「暑かったので、ネクタイを解いてボタンを緩めて、ベルトを外しただけです。それくらい酔ったら男は誰でもするでしょう」
「すみません、私下戸なものでそれはよくわかりませんが。とりあえず露出を増やして、セックスアピールとも取られかねない姿のまま、自分に好意を寄せている相手の前で眠ったんですね」
 二の句が継げない、とはこういうことなんだろうか。どうして、加害者の都合のいいように解釈される。相手は、俺と同じ弁護士なんじゃないのか。まともな倫理観を持ち合わせているんじゃないのか。どうしてお前はそんなにしたり顔なんだ。

「そして最後の点ですが、Nさんは抵抗しなかった、という情報が被告の証言から得られています」
「何を言ってるんだ!!この馬鹿が!!」
「証人は静粛に」
 憤りを抑えてなんども深呼吸をして、どうにか言葉を紡いだ。
「抵抗なんてできるわけがない。目が覚めたら手足を縛られていたんだぞ。抵抗、抵抗なんて、できるわけがない……」
「その状況を楽しんでいたのではないですか。職場の同僚の方からの証言で、『Nさんは日常的に自分にMなところがあると言っていました』と伺っていますが」
 ……Sだ。俺のことハメやがった。あのクソ女。こんなこと話したのはあいつしかいない。他は野郎ばっかりだから話すこともない。
「それは同意があってのことです。あれは同意がなかった」
「でも、抵抗しなかったんですよね。あなたは30歳の健康な男性です。いくらアルコールが入っていたからと言っても、本気を出せば58歳に抵抗することなんて簡単ですよね」
「だから!なんども言っているように、手足を縛られて動けなかったんです!!」
「翌日あなたが病院に行った時のカルテには手足の擦過傷等に関する記載はありませんでした。抵抗していない、という証拠ですよね」
「違う!!違う!!違う!!!」
「証人は静粛に」

「主文 被告人は無罪。」

 無罪の理由、それは俺が合意「しなかった」証拠が足りてなかった、ということにあるらしい。そんなもの、どうやって測るんだ、なあ。
 検察官がめんどくさいことが終わった、とでも言いたげに肩をぐるぐる回している。呆然と人が減っていく裁判室の中を眺めていた。

「はーあ、つまんねえ裁判だったな。男だったら殴り返すくらいすりゃあいいのに、情けねえの」
「だな、学校のレポートで来なきゃいけないならもっと面白いやつに来たらよかったよなあ」
 傍聴席から聞こえる、法学部と思しき大学生に対して怒る気力も湧かない。お前らは、今日一体何を見たんだ。つまんねえ、そんな事件で俺は今死にそうになっていることをお前らは少しでも考えたんだろうか。


 >At Office
 Kは半年間自主謹慎をしてから職場に戻ることが決まった。無罪判決だがボヤ程度の問題の広がりはあったようで、しばらく身を隠すことで忘れてもらう作戦だということだ。ただもちろん反省なんて微塵もしていなくて、夜遊びに精を出しているという噂を聞く。

 事件から1週間、流石にもう有給は使い切り、職場に復帰することにした。わずかだが気力が湧いてきて、Sに文句を言って罵ってやろう、くらいの気持ちで職場に足を踏み入れた瞬間、俺を待ち構えていたのは腰が抜けるほどに冷たい視線だった。
 Sだけじゃない。同僚達全員が、俺を邪魔者として扱う。Kがこなしていた仕事量は膨大だった。その仕事はもちろん同僚全員に回る。Kが起こした事件をきちんと問題視してくれるクライエントたちへの対応業務も一気に追加された。残業がほとんどなかった人でさえも、現在は終電で帰れないことが増えてきていた。事務所内の苛立ちは募る一方だった。そしてその矛先はなぜか俺の方を向いていた。

「Nが黙っていたら問題なかったのに」
「減るもんじゃあるまいし、わざわざKさんの顔潰すようなことしなくても」
「Kさんにずいぶんお世話になってたのに、最低な奴だな」
 給湯室で、トイレで、陰口だったりわざと聞こえるように言ったり、非難されるのは加害者のKではなくて、性被害を受けた俺の方だった。

 退職届を提出するのに、さして時間はかからなかった。


>Hospital

患者名:N
診断名:PTSD、統合失調症、アルコール依存
主症状:加害者に似た人物(本人にとってそう見えるらしい人物)に遭遇すると、震えて呼吸困難を引き起こす。以前の自分の職場や事件を思い出すようなフレーズ(法律、弁護士、酒、ネクタイなど)を聞いたり目にしたりしても同様であるため、関わる人間は服装に注意すること
加害者がその場にいるような幻覚幻聴を伴う
アルコールに対して激しく依存する

 ざざっとカルテを書き終えて、今日から受け入れの患者の様子を思い出した。精神病棟に勤めて長いが、レイプ被害者の男性受け入れは初めてだ。女性は相当数いるのだけれど、男性はお目にかからない。性的な関連で男性がここに来るのはセックス依存症や痴漢加害があまりにもひどいことが原因で更生目的でやってくることの方がはるかに多い。
 高学歴、高収入、見た目も悪くない。恐らく今までは女性の上に「乗っかる」ことしかなかったのだろう。そしてそれが人並み以上のプライドとなって重なっていた。「乗っかられた」ことで自尊心と社会への信頼と色々なものが木っ端微塵になって人格を保てなくなったんだろう。酒に溺れ、叫びながら街を歩いていたところ、アルコール中毒で倒れ、搬送されたのが入院のきっかけだ。
 治療方針を立てていると、やっと落ち着いたのか担当看護師が戻ってきた。ベテランで頼りにしている人である。

「でも先生、男の人ってやっぱ違うんですかね」
「どういうことですか?」
「こう言ったらなんか違いますけど、私たち女って、性的な目にさらされることに慣れてる、というか慣れてしまっている、というか。セクハラとか痴漢とかで」
「……そういう面もありますね」
「だから、女性は被害も多いんですけど、どこか諦めてるというか。仕方ないって心の何処かで思っちゃったりしているところってあるんだと思うんです」
「本当はそんなことはあってはいけないんですが。言わんとしていることは理解できます」
「男の人、先生がそうとかいうわけじゃないですけど、男性にとってレイプって『する』ものであって、『される』ことなんて考えたこともないんじゃないですかね。下手したら一生考えることもない人も多いのかも」

 看護師は、呼び出しのPHSに応じて、部屋から出て行った。

 思考回路がNと似ている自分に気がついて、心底ぞっとした。



>Epilogue
He thought it's not unusual in the world.
However, he never thought it could happen in his world.





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