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日本史26 結局、誰に金を払うかの問題

うひゃ~~~~~~~~~~~~~~~
おしりグリグリされると、寝ちゃうって人、
それって、カピバラと同じだね!!!


1.そんな大したことない村上天皇の「親政」

朱雀天皇の後には村上天皇が天皇になったんですけど、村上天皇は、醍醐天皇と同じで、摂政・関白という補佐役を置かず、自分で政治を運営してたんですね。
こういう、自分で政治をする「親政」というのは、やっぱり天皇の理想っぽくて、醍醐天皇の時も、「延喜の治」とかって言われてたんですけど、この村上天皇の時も「天暦の治」って言われて、この2つを並べて「延喜・天暦の治」って言われるぐらい、自分で政治をするってことが珍しかったのかもしれません。

そんな村上天皇がやったことと言えば、「乾元大宝」を作ったことぐらいなんですけど、質が悪いせいで、大して流行らなかったんです。
理想といわれる「親政」」をやって、「天暦の治」なんて言われてたけど、やった業績はパッとしなかったみたいですね。

「せっかくお金作ったのに、全然流行らんやんけ」

2.ついにライバルがいなくなった藤原北家

村上天皇が亡くなると、再度、摂関政治が始まります。
摂関として出てくるはやっぱり藤原北家の人たちなんですけど、藤原北家にも、邪魔するヤツはいるんですよ。
この時は、左大臣だった源高明というヤツが、藤原北家のライバル役になります。
でも藤原北家は、この源高明を一蹴します。
「源高明さん、たぶん、裏切りますよー」なんつって、
謀反の疑いをかけるんです。
摂関の一声で、源高明は、大宰府に左遷です。
もう、藤原北家の人たちに逆らったら終わりみたいな時代ですね。

ここからしばらくは、ライバルがいなくなり、藤原北家が、実権を握り続ける状態になります。

「もう、邪魔する奴は・・・いない」

3.「人」じゃなくて「土地」に課税すればいいんじゃね?

この頃から、税の徴収の仕方も変化してきます。
今までは、「人」を基準として税を徴収してたんですけど、税の負担を負わされた人ってどうすると思います?
そう、逃げるんです。噓つくんです。
つまり、基準となる「人」を正確に把握できず、税の徴収ができなくなるんですね。
だから、基準を「人」から「土地」に変えたんです。
「土地」に税をかけて、その土地を耕した人から税を徴収するようになったんですね。
耕してた人が逃げても、また次にその土地を耕した人から税を徴収すればいいってわけです。
この、土地を耕作する農民を「田堵」といって、課税の対象になる土地を「名田」っていうんですけど、「大名」の語源は、ここから来てます。
広い土地を持った人のことを「大名」っていうんですね。
「田堵」が「名」の耕作を請け「負い」、税を納めるこの体制は「負名体制」と呼ばれています。
広い土地の耕作を請け負った有力農民は「大名田堵」、土地を開発した有力農民は「開発領主」といわれました。

「人じゃなくて土地にすればいいじゃん!」

4.ただの「地方公務員」が支配者になってしまった

こんな感じで、土地の持つ意味合いが変わってくると、国司という、地方に派遣された公務員の実態も変化していきます。
つまり、国は、国司に対して、
「税をちゃんと集めれば、あとは何やってもいいよ」
って言ったんです。
こうなったら、国司は、ノルマの税を集めたら、やりたい放題です。
派遣された土地を支配してもいい、徴収して余った税は自分のものにしてもいいし、その土地の民衆に労働させてもいいし、なんなら自分は地方にいかず、代理のヤツに税を徴収させてもいいんです。
地方に赴任した国司を受領っていって、都に残った国司を「遙任」っていって、代理で地方に行った手下的なヤツを「目代」っていったります。

「これからは、私が、税を集めます」

5.貴族に頼るしかない農民たち

でもよく考えてください。
農民は、頑張って土地を耕してんのに、欲張った国司が、必要以上に税を取っていくんですよ。
腹立ちますよね。
めちゃムカつきますよね。
だから、広い土地の耕作を請け負った「大名田堵」や土地を開発した「開発領主」は、上級貴族や立派なお寺・神社に、土地を寄付して、貴族や寺社の土地(荘園)にしてもらって、収穫の一部を献上するかわりに、受領から守ってもらうようになります。
いくら受領でも、自分よりも立場が上の貴族や寺社には手が出せないんですね。
こんな感じで、多くの土地を寄付してもらった貴族の最たるものが、摂関家である藤原氏だったわけですね。
こういう、寄付された土地から財力を得ていったわけです。

(´_ゝ`)

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