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偽善をパーセンテージで考えてみる

 エッセイ連載の第10回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 遠藤周作は1923年3月27日の生まれで、今年が生誕100年です!
 今月のNHK「ラジオ深夜便」の「絶望名言」でも、遠藤周作をご紹介させていただく予定です。
 そういうことから、遠藤周作の本をあらためていろいろ読んでみています。
 そして、この言葉にぶつかり、ハッとさせられました……。

 遠藤周作の『狐狸庵閑話』(新潮文庫)を読んでいたら、こんな一節があった。

 意地悪爺さん、来る。意地悪爺さんとは作家、某氏のことにして、平生より人間をば意地悪の眼にて眺むることを、人間観察と思う男なり。
(中略)
 意地悪爺さんの考え方は現代文学の人間にたいする見かた也。それは人間の裡にある形而上的な志向をこと更に形而下的なもの、無価値なもの(エゴイズム、虚栄心、その他……)に還元して、それを人間の本質だと思う見方也。ある人間の善意の中にひそかなエゴイズムを嗅ぎつける。ある人間の美しい行為の中に虚栄心をみつけんとする。たしかに善き好意、美しき行為のなかにはエゴイズムもあろう。虚栄心もかくれているだろう。しかしエゴイズムなき人間、一片の虚栄心も持たぬ人間を空想することができるだろうか。(中略)それはさながら、すべての恋愛を精神分析学者のように性慾に還元するのによく似ている。しかし性慾を強調することによって恋愛の本質は摑めないのと同じように、すべての人間の行為にエゴイズムと虚栄心とを強調しすぎるのは我々の陥りやすい罠である。
(中略)
 フランクルの本、読む。ナチ収容所の体験記なり。文中、左の一節あり。「収容所の中には自分の最後のパンの一片を病人に与えて通って行く人間はごく少数であったがいた」
 この自分に残された最後のパンを病人に与えたという少数の人の心理を、なおかつ、虚栄心也と我々が眺める権利があるか、どうか狐狸庵は知らない。しかし、よし、それに二十パーセントの虚栄心がまじっていたとしてもあとの八十パーセントを我々はエゴイズムや虚栄心だけでは割り切れないということである。もしその考え方を甘いと言うならもう仕方なし。そこには一つの賭が――つまり我々が人間にどれだけ信用をおくか、否かという重要な賭が残されているのである。

 この心をパーセント、割合で考えていることに、ハッとさせられた。
 人の善行に対して、つい「偽善なのか、純粋な善意なのか」と両極端な2択で考えてしまいがちだ。
 そして、少しでも偽善が混じっていると、その行為は本当には美しくないように感じてしまいがちだ。

 しかし、考えてみれば、それは潔癖すぎる。そこまでの潔癖は、人間としてありえないレベルで、そこまで求められたら、何もできなくなってしまう。

 だったら、パーセンテージで考えればいいのではないか。20パーセント、30パーセント、あるいは50パーセントが偽善であったとしても、残り50パーセントは「エゴイズムや虚栄心だけでは割り切れない」としたら、充分に美しい行為ではないだろうか?
 天然果汁10%未満のジュースを平気で飲んだりしているのに、善行にだけ100%の善意を求めるのは、きびしすぎる。


 山田太一の『男たちの旅路』というテレビドラマシリーズの「猟銃」(1976年)を思い出した。

 自分の母親が、父親に対してどこか冷たかった。夫婦として普通に接してはいるが、どこかひんやりしたところがある。父親が死ぬまで、ずっとそうだった。そのことが息子はずっと気になっていた。
 ふとしたきっかけから、それは若いときに別の男性を好きになって、でもその男性とは結ばれることがなかったからだと知る。
 息子は、その相手の男性に会う。特攻隊の生き残りで、初老の今も独身だ。

 男は昔のことを語る。特攻隊の同期の仲間と2人で、同じ女性を好きになった。その仲間は特攻隊で出撃し、死んでしまった。自分は、ぎりぎりで終戦になって生き残った。好きだった女性と結婚しようと思った。でも、どうしてもできなかった。「ワーッと死んだ奴を思いだした」「どうしても結婚をきり出せなかった。生き残ったのをいいことに、一人で幸せになっちまうのは、すまない気がして言い出せなかった」

 それを聴いていた若者が、こんなふうに言う。

陽平「綺麗すぎるねえ」

 そして、こんな言葉が交わされる。

吉岡「お前は、きたなきゃ信じるのか」
陽平「もうちょっと本当らしけりゃ信じますよ」
吉岡「どんな風なら、本当らしいんだ? 死んだ奴なんかサッサと忘れたと言えば信じるのか?」
陽平「人間は忘れるもんでしょう?」
吉岡「忘れなきゃ嘘だって言うのか? お前らは、その調子で、なんにでもたかをくくってるだけだ。恋愛も友情も、永続きすりゃあ嘘だと思う。人のためにつくす人間は、偽善者かバカだと思う。金のために動いたと言えば本当らしいと思い、正義のために動いたと言えば、裏になんかあると思うんだ。お前らは、そうやって人間の足をひっぱって、大人ぶっているだけだ。しかしな、人間は、そんな簡単なもんじゃないぞ。俺が、いまだに一人でいることを、お前らに言わせれば、相手がなかったとか、面倒くさくなったとか、そんなことで片付けようとするだろう。しかし、そうじゃない。幸せな家庭なんかつくりたくなかったんだ。死んだ奴に一人ぐらい義理をたてて、独身で通す奴がいてもいいという気持だったんだ」
陽平「戦後三十年たってるんだからねえ」
吉岡「甘っちょろいと言うのは簡単だ。しかし、甘い綺麗事でも一生をかけて、押し通せば、甘くなくなるんだ、と俺は思っている」
陽平「───」
吉岡「しらけて、わけ知りぶるのは勝手だが、人間には綺麗事を押し通す力もあるんだということを忘れるな」

『山田太一セレクション 男たちの旅路』里山社)

 私は古いテレビドラマを見るのが好きで、この『男たちの旅路』も大好きなのだが、このシーンを見たときには、とても衝撃を受けた。
 まだ私は20代で、まさに「金のために動いたと言えば本当らしいと思い、正義のために動いたと言えば、裏になんかあると思う」というふうだったからだ。

 実際、世の中には汚いことが多い。キレイな表面だけ見ていたら、すぐに騙されてしまう。裏がわかって、初めて「ああ、本当はそういうことか」と納得して、安心できるところがある。

 でも、だからといって、綺麗なことがあっても、「甘い綺麗事」だと、すべてを汚く塗りつぶしてしまっていたのは、よくなかったと思った。「そうやって人間の足をひっぱって」しまっていたと思った。公害がひどいからといって、せっかく残った綺麗な自然まで、どうせ汚染されていると踏み荒らしてしまうようなものだ。

 もちろん、この特攻隊の生き残りの吉岡という男も、100パーセント純粋とは限らないだろう。「綺麗事でも一生をかけて、押し通せば、甘くなくなるんだ」という自分の生き方を誇り、酔っているところもあるだろう。
 しかし、それはやっぱり、20パーセントくらいで、あとの80パーセントは「エゴイズムや虚栄心だけでは割り切れない」だろう。

 最近は、ますます汚い世の中になってしまって、それを隠そうとさえしなくなっているから、裏を見ようとしなくても、あからさまに裏を見せつけられてしまい、しかもそれでいてまったくどうしようないという無力感にさいなまれる。
 すべてが汚いという1色感にとらわれてしまいそうになる。

 それだけに、遠藤周作の言葉に、あらためてハッとさせられたのだ。
 まさに、「すべての人間の行為にエゴイズムと虚栄心とを強調しすぎるのは我々の陥りやすい罠である」

 遠藤周作はこう書いている。

 見るということは相手の偽善を剝ぎ、そのエゴイズムをあばき、その虚栄心を浮上らせることだけではなく、もう一つの面もあるのではないか。

『狐狸庵閑話』(新潮文庫)

 偽善やエゴイズムがあったらもうダメというのではなく、せめてパーセンテージで考えるようにして、さらに、できるだけ、もうひとつの見方もしていきたいものだ。
 そして、自分が何かするときも、そこに何10パーセントか偽善やエゴイズムが混じっていたとしても、それでやめたりしないようにしたいものだ。



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