偽善をパーセンテージで考えてみる
遠藤周作の『狐狸庵閑話』(新潮文庫)を読んでいたら、こんな一節があった。
この心をパーセント、割合で考えていることに、ハッとさせられた。
人の善行に対して、つい「偽善なのか、純粋な善意なのか」と両極端な2択で考えてしまいがちだ。
そして、少しでも偽善が混じっていると、その行為は本当には美しくないように感じてしまいがちだ。
しかし、考えてみれば、それは潔癖すぎる。そこまでの潔癖は、人間としてありえないレベルで、そこまで求められたら、何もできなくなってしまう。
だったら、パーセンテージで考えればいいのではないか。20パーセント、30パーセント、あるいは50パーセントが偽善であったとしても、残り50パーセントは「エゴイズムや虚栄心だけでは割り切れない」としたら、充分に美しい行為ではないだろうか?
天然果汁10%未満のジュースを平気で飲んだりしているのに、善行にだけ100%の善意を求めるのは、きびしすぎる。
山田太一の『男たちの旅路』というテレビドラマシリーズの「猟銃」(1976年)を思い出した。
自分の母親が、父親に対してどこか冷たかった。夫婦として普通に接してはいるが、どこかひんやりしたところがある。父親が死ぬまで、ずっとそうだった。そのことが息子はずっと気になっていた。
ふとしたきっかけから、それは若いときに別の男性を好きになって、でもその男性とは結ばれることがなかったからだと知る。
息子は、その相手の男性に会う。特攻隊の生き残りで、初老の今も独身だ。
男は昔のことを語る。特攻隊の同期の仲間と2人で、同じ女性を好きになった。その仲間は特攻隊で出撃し、死んでしまった。自分は、ぎりぎりで終戦になって生き残った。好きだった女性と結婚しようと思った。でも、どうしてもできなかった。「ワーッと死んだ奴を思いだした」「どうしても結婚をきり出せなかった。生き残ったのをいいことに、一人で幸せになっちまうのは、すまない気がして言い出せなかった」
それを聴いていた若者が、こんなふうに言う。
そして、こんな言葉が交わされる。
私は古いテレビドラマを見るのが好きで、この『男たちの旅路』も大好きなのだが、このシーンを見たときには、とても衝撃を受けた。
まだ私は20代で、まさに「金のために動いたと言えば本当らしいと思い、正義のために動いたと言えば、裏になんかあると思う」というふうだったからだ。
実際、世の中には汚いことが多い。キレイな表面だけ見ていたら、すぐに騙されてしまう。裏がわかって、初めて「ああ、本当はそういうことか」と納得して、安心できるところがある。
でも、だからといって、綺麗なことがあっても、「甘い綺麗事」だと、すべてを汚く塗りつぶしてしまっていたのは、よくなかったと思った。「そうやって人間の足をひっぱって」しまっていたと思った。公害がひどいからといって、せっかく残った綺麗な自然まで、どうせ汚染されていると踏み荒らしてしまうようなものだ。
もちろん、この特攻隊の生き残りの吉岡という男も、100パーセント純粋とは限らないだろう。「綺麗事でも一生をかけて、押し通せば、甘くなくなるんだ」という自分の生き方を誇り、酔っているところもあるだろう。
しかし、それはやっぱり、20パーセントくらいで、あとの80パーセントは「エゴイズムや虚栄心だけでは割り切れない」だろう。
最近は、ますます汚い世の中になってしまって、それを隠そうとさえしなくなっているから、裏を見ようとしなくても、あからさまに裏を見せつけられてしまい、しかもそれでいてまったくどうしようないという無力感にさいなまれる。
すべてが汚いという1色感にとらわれてしまいそうになる。
それだけに、遠藤周作の言葉に、あらためてハッとさせられたのだ。
まさに、「すべての人間の行為にエゴイズムと虚栄心とを強調しすぎるのは我々の陥りやすい罠である」。
遠藤周作はこう書いている。
偽善やエゴイズムがあったらもうダメというのではなく、せめてパーセンテージで考えるようにして、さらに、できるだけ、もうひとつの見方もしていきたいものだ。
そして、自分が何かするときも、そこに何10パーセントか偽善やエゴイズムが混じっていたとしても、それでやめたりしないようにしたいものだ。
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