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とろ火の不幸

エッセイ連載の第28回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 短いですが、ずっと気になっていたことです……。


 強火で一気にみたいな不幸にはみんな同情してくれる。
 しかし、とろ火でじっくりみたいな不幸には、人は冷たい。

 たとえば、山で遭難して、何日も飲み食いしてなくて、よろよろしている人になら、誰でも飲み水や食べものを差し出すし、介抱してくれる。
 しかし、自分の家で、もう何年もかつかつの食事しかできなくて、じわじわ弱っている人に対しては、苦しそうだとはわかっていても、まあ、何年もやってきているんだから、大丈夫だろうと思ってしまう。で、大丈夫ではなくて亡くなったりすると、びっくりして、そういうことになる前に言ってくれればと言う。

 言ったとしても、なかなか相手にされないのだ。強火なら、「これはなんとかしないとすぐに焦げそう」とあわててくれるが、とろ火だと「まだまだ大丈夫そう」と思われてしまう。
 でも、いくらとろ火でも、いつか焦げつくし、そうでなくても、とろ火でじっくりやられるのは、それはそれでつらいのだ。じっくりと味が深くまでしみこんでしまう。

 ぜひ、とろ火の不幸の人にも、もっと同情してあげてほしいと思う。「なんだ、スマホ持ってるんだ」「部屋にエアコンあるじゃない」とか思うかもしれないし、たしかに明日にも飢え死にするような強火ではないかもしれない。でも、それはまだ余裕があって大丈夫ということではなく、とろ火でずっと煮つづけられているかもしれないのだ。

 とろ火で料理していると、つい油断して目を離してしまって、気がつくと焦げついていたりする。
 料理ならまだいいが、人間相手に、これをやってしまわないように、注意したいものだ。


 今日は、朝日新聞デジタルにも、インタビュー記事が掲載されました。
 よろしかったら、そちらもご覧いただけると、うれしいです。
(途中から有料記事で申し訳ありません……)



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