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蟻の弔い

先日、我家のベランダに植えてあるアズキの花の蕾に、小さな蟻の行列がやってきた。


アズキとはあの小豆のアズキで、蔓性なのでグリーンカーテンの為に植えているのだが、これがとても強くて丈夫で、虫もあまりつかないのだ。

六月頃に種を植え、ゴーヤやキュウリが終わった九月過ぎの頃にも旺盛に葉っぱが生い茂り、花が咲き始める。

最強のグリーンカーテンにはなるが、葉をそれだけ広げているという事は、茎も幹くらいに太くなり、水もグングン吸う。仕事で1日留守の人にはそれなりの工夫が必要となる。


大きなプランターだと日影になりすぎるくらい旺盛に茂る。


ベランダでは今まで鼠の被害はあるのだが、大量の蟻の出現は初めて。面食らった。


どこからやって来ているのか辿って見てみると、1階から(うちは2階)一列になって壁を伝い、二階までやってきている。


壁を一列に伝っている蟻の行列を見た時は、あの「トムとジェリー」の蟻の行進曲が確かに聞えてきた...。


トムとジェリーの公式Xがあるんですね...。


尺八で吹くと、


リツレチ リツレチ リーリリ ツー

(リは中メリ、最後のツは甲)


でしょうか。



手すりから網、そしてアズキの蔓性の茎を伝い、それぞれの花の蕾に幾匹もくっついて、じっとしている。

蟻の写真を撮る余裕は全く無かった…。


どうやら何かを運ぶというより、お食事をしているようだった。アブラムシがいると蟻が来ると言われていますが、その様子も無い。



おお、これはヤバい。

すでに、200匹以上はいるはず。

茎から茎へ、「アリさんとアリさんがごっつんこ」をそこかしこでやっている大勢のアリさんたち。



実家もよく家の中の蟻の行列で騒いでいた。

まさか、二階のベランダにやってくるとは。


きっと、とある一匹が、

「おお!こんなところに美味しいアズキの花みーつけた!蕾もいっぱいじゃないの〜。おーい、みんな〜!来て来て〜」

てなことで、一家総出でやってきたのか。


ミントの匂いを嫌うとネットで見たので、通り道にシュッシュとやってみた。

が、跡絶えるのは一瞬。

ズンズンやってくる。


同じ様に、洗剤を水で薄めてシュッシュとしてみたが、同じくしばらくすると少し道を変えてやって来ているようだ。

これは、薬に頼るしか無さそうだ。


花の蕾を小さな蟻が食べるのくらい、多分たかが知れているけど、家の中まで来るようになったらおしまいだ。


仕方なく、近所のホームセンターで家の周りに撒く蟻の嫌いな粉を買って来て、通り道に撒いてみた。

翌日、ぱったりいなくなっていた。


ちょっとしたアリ騒動だった。



洗剤等で幾匹か殺してしまったので、虫供養をしなければ…と思いつつ。

翌日、いつも行く近所の公園で、ふと大きな蟻の巣が足元にあり、見てみると、偶然中から一匹の蟻が、一匹の蟻の死骸を持って出て来たところに遭遇した。



この蟻は前日の蟻よりも少し大きい、真っ黒な蟻。

その仲間の死骸を運んでいる蟻は、巣から出てズンズン歩いて行く。



蟻ってよく死んだ虫運んでるよね。
共食いはしないのかな?
近くにお墓でもあるんかな?笑
まさかね〜


なんて、この蟻がどこまで行くのか追ってみた。

すると、巣から2〜3メートルほど離れた場所に、その死骸をポイと置いて、またその蟻は帰って行った。


ええ?

ここがお墓なの?
置いて行く?
なんでなんや〜?


と、
とても不思議に思いグーグル先生に、
「蟻 共食い」
と聞いてみた。


すると、
蟻博士のような人が説明するには、

蟻は、同じ女王アリから生まれたもの同士では共食いはしない。そうだ。
そして、巣から仲間の死骸を持って出て来たという事は、お葬式が済んで、あとはその仲間をどこかに放置しに行き、他の虫などに食べてもらうのだそうだ。

なんと、お葬式までやっているとのこと。

そして、その死骸を無駄にしないで他の虫に食べてもらうために放置。まるでチベットの鳥葬みたいだ。怪我や病気も巣で治しているのだそうだ。

すごい仲間意識。

しかし、他のグループ(女王アリが違う)だと、エサの取り合いで喧嘩したり、死骸も食べたりするのだそうだ。

蟻のこと何も知りませんでした。



思い出したのが、サマセット・モームの短編小説「蟻とキリギリス」

「蟻とキリギリス」は、日本人でも子供の頃読んで、誰でも知っていると思う。


 まだほんの子供であった頃、私はラ・フォンテーヌの寓話をいくつかおぼえさせられ、それぞれのなかに含まれている教訓を身に沁みるように説ききかされたものだった。そうして教えられた寓話の一つに「蟻とキリギリス」というのがあった。その話というのは、不完全な世の中では、勤勉にはよいむくいがあるが、浮薄なやからは罰をうける、という有益な教訓を若いものたちの肝に銘じるようにうまくつくられているのである。この称賛に値すべき寓話というのは、次の通りである。
 蟻が夏のうちにせっせと働いて冬の食物をたくわえているというのに、一方キリギリスのほうは、草の葉の上で、太陽に向かって唄を歌っている。やがて冬がやってくると、蟻はなに不自由なく暮すのだが、キリギリスの食料部屋はからっぽである。キリギリスは蟻のもとに出かけてゆき、少しでもいいから食べ物を分けてくれという。すると、蟻はこのときばかりと、あのだれでも知っている有名な返答をする。

「おまえさんは夏の間なにをしてきたのさ?」
「あんたの前だけど、わたしは昼となく夜となく、歌いつづけていたんだよ」
「ウン、なるほどね。それじゃ、またひとつ踊りに出かけたらどうだい」

子供のころにはこの教訓がぴったりこなかった。というのも、片意地な私の性質のせいではなくて、むしろ何がよいのか悪いのか区別もつかない子供時代にありがちな矛盾によるものだと思う。私は怠け者のキリギリスのほうに同情してしまい、しばらくの間は、蟻を見るとどうしても足で踏みつけずにいられなかった。

モーム「蟻とキリギリス」
龍口直太朗訳『コスモポリタン1』


私は、この部分を読んで笑ってしまった。苦笑いか。

かくいう私も、とてもキリギリスに同情していたからだ。

モーム少年は、蟻を踏みつけていたというからさらにすごい。

彼自身は、思慮分別だとか常識だといったことに素直に賛成できないという性質からきているものだということだが、私は単純に、「じゃ、いったい音楽は、誰がやるんだ?」という疑問だった。私が見た挿絵のキリギリスはバイオリンを弾いていた。



誰でも知っている慣用句、


「働かざるもの喰うべからず」


ずばり、「蟻とキリギリス」はこういう意味だ。


これは新約聖書にあり、「働かざる者食うべからず」という表現で広く知られることとなったそうだ。ここで書かれている「働こうとしない者」とは、「働けるのに働こうとしない者」であり、病気や障害、あるいは非自発的失業により「働きたくても働けない人」のことではないとされている、とのこと。
そうかそうか、それなら良かった。



日本国憲法第27条にも、


「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」


とある。



働くことは国民の義務なのです!



もし、蟻のように、どこかに歩いて行って「食料」を拾って来ることが出来るなら、なんて羨ましい生活なんだろう。 

しかしながら、ニンゲンは、それを現金で手に入れなければいけない。

働く=金=生活
という構図が今の世の中には成り立っていて、自分の「時間」との交換条件にお金をもらう。



が、芸術を極めようとする人は、とにかく「時間」が必要。企業や会社に勤めて朝の9時から5時まで拘束されていたら何もできない。

そう言う私も、尺八の練習時間を優先させてきたら、季節労働を選択するしかなく、要はバイトで、結局こんな事になってしまった。

「芸術」なんてものがこの世になかったら、「稼ぐ」ことにめちゃめちゃ集中したと思う。いや、これは言い訳ではなく本当に時々思う。普通に働きたい。


それはそうと、


さきほどの蟻の生態の謎も、どこかの蟻博士がネット上で教えてくれたのだ。

彼らも喰えてないだろうなー。

蟻の生態を研究するなんて、一生かかりそうだし、想像するだけでも大変そうだ。

いやはや、私の尺八の歴史の研究なんてまだまだ序の口だ。



一体、ニンゲンである我々は何を目的に生きているのか。

昆虫の目的は子孫を残すため。それしかない。その一つの目標に向かって一丸となってそれぞれ仲間と協力している。


我々は、こうして毎日何をしているのでしょうね。


はっ、


疑問が壮大になってきてしまった。これくらいにしておきましょう。

蟻さんのおかげで、また色々と勉強になりました。



ということで、


そんな事をごちゃごちゃと言っているヒマがあったら働け。

と、お彼岸にご先祖様からのメッセージが聞こえてきそうです。

スミマセン墓参りも行かずに。



アリ博士が言うには、なんと、蟻の中でも怠け者が何割かいて、巣の中でゴロゴロしていたり、皆と同じ方向に行かないでフラフラしている個体もいるそうですよ。何か一大事があった時の予備軍のような役割らしいですが、ちゃんと喰わしてもらっているのだから、アリ社会は優しいですね。笑


何だかちょっと安心しました。


人間社会もそうなるとアリがたいですね。
アリさん色々教えてくれてアリがとう🐜


古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇