103.「カタカムナが残した 最高の底力 最高の描象力」

日は、現在私たちが使っている日本語というものの底力について書きたいと思います。
日本人が、日本人であることの最も端的な証拠は、「日本語」を使うと言うことです。日本語には、どうしても外国語に翻訳できないものが多いのです。どこの国の言葉にも、もとより、他国語にうつされるものがありますが、日本語の場合は、庶民の日常の言葉の中にもそれがあまりにもたくさんあることは外国生活の経験者は誰しも感じるところです。
たとえば、「マ」とか「ワ」とかを辞引でみると
マ =間、部屋、間しきり、部分、序間、間子、運(チャンス)、運命、幸運、悪魔とならんで居ますが、さてマに合わせて、マがよい、マにうける、マとマり、マがさす、マが合ら、そのママ、ママならぬ、マヌケ、など要するに「マとは何か?」を到底訳しきれるものではないのです。
「ワ」もまた円形(サークル)、輪(車輪)、環、和(大和、平和、調和、和算、和製、和訳)等、なるほど、マとかワとかいふ訳に、これほどの意味があることを、日本人は気づかずに使いわけて居るのか?と、改めて感心する次第で、我々は「ワが大事だ」と言へば「和」のことだと思はぬ日本人は無いし、「ワをつくりなさい」といえば幼稚園児でも間違わずに円形のワをつくる。ところが外国人にとっては、これはまことに至離のわざである。
又「アリガトウ」は「サンキュウ」でマに合せるとしても「アマエル」「バチガアタル」、「モッタイナイ」には困ってしまう。日本語の「アリガトウ」は「私があなたに感謝する」の主語代名詞の省略形であるといふ説明はマチガヒなのです。又、「モッタイナイ」も、単にものが惜しいという経済的な問題ではないのです。「アリガトウ」も「アマエル」も、「バチガ当ル」のも「モッタイナイ」のも、外国語にうつしようのないこのような日本語のところは、つねに、自分たちをかくあらしめて居る大きな根元(アマ)への思いがあったからです。この事を忘失して、日本語の本当の相を観ることはできないのです。
 
又、日本人には最もポピュラーな「親子」という一言が、西欧語にもシナ語にもありません。その意味を表そうとすれば、両親と子共、あるいは、父と母と子、又は父と子など、その時と場合によって、単数複数、性別をつけて言わなければならないのです。
日本人が長い間、もっとも日本的なムードとして醸成して来た「オヤコ」という言葉は、カタカムナ文献にもありません。思うに、日本民族の感覚から、カタカムナ人のようなアマヘの直観がうすれ、微妙な日本人の心情の歪みが出始めたからと思われます。敬語の使い分けが出来なくなったことも関連して、これは日本人にとって、大きな未解決の問題であるので、改めて後日詳しくお話しします。
私たちが、子供でも、チエ遅れの人でさえも、日本人なら、何でもなく使い分けている日本語は、実は、非常におもしろいもので、おそらく世界のどこの国の言葉にも見られない、独特の成り立ちによるものであることを、日本人は知っておくべきです。
一口に、「日本語は同音異義語が多い」とか、「主語代名詞省略形」などといって、片づけられる問題ではありません。なぜなら、日本語というものは、カタカムナ直観物理の援用によって出発して居たからです。現代日本語の仮名遣いの混乱の原因もなお、このカタカムナの伝統を失脚したところに端を発して居たととを、私達は、カタカムナ文献の解読により知ることが出来たのです。私達は、相似象会誌の発行に際し、新カナよりは旧カナの方が、文章語としてふさはしいと言う見解をとりましたが、旧カナが最良の日本語の文法であると思って居るわけではありません。「文法」とは文字通り、「文をつづるための理」であって自然発生的に話し合って居た言葉を、文字を使って文章につづるに当り、共通的な法則を見出そうと考案されたものが文法です。
どこの国語の文法にも、必ず「例外」はあります。ところが、日本語を、彼らのやり方で整理しようとすると、ムヤミに例外が出てきすぎる。五十音の利用は非常にうまくいったが、しかしやはりどうも困ることが多い。そこで、「いっそ発音通りに書いてしまえ」というような事になる。五十音の成立の時期はわかりませんが、本来文法とは無関係にあったものと思はれます。
 
今日はここまでです。


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