114.「カタカムナ文明 アマ始元量の仮説」

 今日はカタカムナ文明の中で何回も使われるアマ始元量の仮説に関してお
話しいたします。
 今のところアマの元に基づくカタカムナ人の直観物理は、単なる仮説にすぎないのです。しかし、仮説というものは、これがマトモなものであれば必ず後世の研究によって承認されるものです。現代人の科学を振り返ってみると我々が子供の頃学習した理論はもはや古典理学と言われ、質量の元は崩れて時間空間の元にとって代わられ粒子性・波動性の重畳理論の出現によって現代理学に衣替えされました。しかし今日では、既に、時空の元も破綻をきたし、しかも、替わるべき理論がまだみつからないという有様です。今日の科学は、もはやヤミクモに偶然を期待したまぐれ当りの研究の時代ではありません。真撃な科学者が、一生をかけて地道に丹念に一つのテーマを詳細に追究するには単なる思いつきに任せるのではなく、その奥に科学者自身の哲学があり基本方針があるのでなければ真に価値高い研究は生まれない。大規模のグループ的研究にしても同様で、研究者として何よりも肝腎な事は「本質」の「方向」を見抜く「カン」の鋭さなのです。現代科学に抜けて居るところは、「本質は何であるか?」という洞察です。例えば、電気のハタラキはわかるが、電気の本質とは何か?磁気の現象はみえるが磁気の本質とは何か?原子・素粒子の本質は何か?光・熱・力・電磁波、幅射・時間・空間、万有引力等々として、科学が捉へて居るものの本質は一体何なのか?又、人間の発生が、亀や蛙や魚や、植物とも「相似象」である事はつきとめましたが、さて、生命の本質とは何か?心とは何か?精神現象の本質とは何か?美とは何か?善とは何か?等々の本質的な質問に対しては、皆ゆきづまって答えられないのです。物理で求める生命質の最低限が、分子下のレベルで手をつなぎ、物質の電気現象と生命の電気現象とが、結びついたことはよかったのですが、それなら生物と無生物の区別は?となるとハッキリと説明ができない。科学がもう少し進歩してさまざまな分野で奇妙さ量に突き当り、それらが示す方向をつないでゆけば、イヤ応なしに、カタカムナ人が「アマ」と称した「始元の量」の存在にいき着くしかないだろうと思われます。ところが何とよぶかは自由ですが、おそらく現代人は、それを「思考」によって追いつめるでしょうが、上古代人は「直感」によって感受し太極から全体を達観して大づかみに本質を把握し本性を観じ、そこから「相似象」としての微視的なものを勘考し、生命質や物質の最下限の生成過程をサトったのです。
 顕微鏡もなかった時代に、現代の我々がようやく発見したような事まで知って居た筈がない」と思うのは大きなアヤマリです。巨察がマトモであれば、徴視は「相似象」で観じ得るものです。
 しかしアベコベに、微視的角度から入った現代科学が、迷路に陥って居るのは巨察の能力が乏しいのが原因です。その点カタカムナ人の直観物理は、モノが現象「カタチやハタラキ」として現われるモトの本質を直感によってサトったところから出発して居るので、顕微鏡や望遠鏡的観測の技術に於ては現代科学の比ではありませんが、しかし、なまじイキナリ微細構造から入りこんで本質を見失うよりは、マトモです。現代人が、本質究明の方は手が出ぬままに放置し末端のいじくれる所を微細について迷路に入りこみ、その種の研究の成果が、数多く発表されている事を以て「科学の進歩」と称してみても実は「アンバランス」な状態を出ません。個々の研究の中にも優秀なものがあり、カタカムナの直観物理に接近するというものがあっても、綜合すればさほどでもない事になっています。科学というものが、全体的にはアンバランスで、それぞれの専門家がたてこもり部外者を寄せつけないという有様では、専門外の者が正しい知識を得たいと思っても、結局、科学としては頼りないものを押しつけてくる事になり、我々は、それをアイマイのままにウノミに丸暗記するしかない。現に、中学校などで教えて居る電気の初歩の説明ひとつにしても陰極陽極の名称すら混迷して居る為に、子供心に「電気というものは難しいものだ」という第一印象を強く焼きつけてしまう罪は深いものがあります。「電子」が「電気の子」と書くなら、電気にも親があるのか?電気は一体どこから生まれ、消えてどこへゆくのか?このような素朴な子供の質問にも、現代科学は明答できていません。又、例えば、小学校の理科の授業で、真空の実験を示され、真空の中には「ナンニモ無い」と教えこまれて育った我々には、真空の中でも酸素や水素の物質は無くても目には見えないが「何かある」と感じ、又、原子の内部にも宇宙の真空中の中にも「ナンニモ無い」とは考えなかったカタカムナ人の直感をスナオに受け容れる事が、非常に難しくなってしまったのです。
 このように反省してみると、その点、上古代人の直感はスナオで「電気(イカツ)」というモノも頭髪や皮膚や毛皮をこすってもその存在が認められるし、男女の接触にもあらわれ、又、雷(イカツチ)のように、大気の中にも存在する身近なモノという感じから、サヌキ、アワの男女の「正反の電気性」としてとらえ、直感のおもむくままに思考を進めて天然自然の成り立ちのような巨大現象から原子以下の微視のものに至るまで「相似象」として、一貫して、その本質・本性を把握して居るために、その説明の趣旨は快でスジミチが通り素人にもその道理がスラリとのみこめるのです。電気「イカツ」のオヤが何であるのか?のみならず、兄弟もオジもオバも祖父も祖母も、そして又、マゴもヒマゴもという風にわかるのです。専門家になる為なら、従来の学問を勉強する必要はありましょうが、マトモな常識を得る為ならカタカムナの直観物理を学ぶことが、最も能率のよい勉強法だと思います。なぜなら、専門といっても従来のものは、いわば詳細の学問ですから、結局は、末端で混迷しキリキリ舞いをさせられて居る事は自分では気付かず高度の学問に携って居るように錯覚してガンコに他者を寄りつけない気狂ひじみた姿に陥る危険も出てくるからです。
 そのような事になるのは、科学者自身に狂ったところがあるので、それに
は、何かの「標準」を示さなければ、その狂いに気がつく事は出来ません。その意味で、狂って居ない基準となるものとは何か?と言えば、私達はカタカムナ人の直観物理をすすめるのです。しかし、そのカタカムナ人の直観の内が、従来のような神秘思想によって翻訳された「神話」などであってはその役割を果す事は不可能なのです。そこで、それが単なる神話などではなく「上語」として、その誤訳を整頓すれば、こういう意味になり、こういう意味に体系化される、というものを示して将来の科学の進むべき方向の参考としても、又、一般常識としても、とりいれ得る形にしておくことが、カタカムナ文献を読解した者の責任であると思うのです。今までのように、科学も哲学も芸術もバラバラでは、どこに人間としての、正しい学問の道があるのか?我々のあとから生れ育つ者に、又、我々と同じアヤマチを繰り返えさせるしかなく、個々バラバラの専門の一つを如何に細かく勉強してみても、人間としての正しい判断力が、養われるものではない。むしろ逆に、マトモな判断力を迷わせることになる。
 私達は、自身が科学を学んでみてせっかく一生懸命苦労して覚えた事が、ハシから修正され根底から覆えされる。このような事の無い、もっとドッシリとした学問はないものか?と思わざるを得なかった。権威ある学会の定説が、次の時代には否定され、当時無視されて、不遇のうちに死んだ人々の意見が、正当であったとしても、誰も責任をとらず、むしろ、科学の進歩と称して疑われもしない。真に鋭い直感に基く理論であれば、科学の発達と共にその正当さは実証され理論の精密の度が加わる事はあっても、根底から訂正しなければならないという事はない筈ではないでしょうか?しかしながら、いかに鋭い直観か大切だといっても、現代にあっては、科学に素人の思想家の思いついた理論では、鋭いものがあって一般的に信頼を得る事は出来ても、高度の「科学識」の批判に堪える事は出来ません。どうしても、鋭い直観と、高度の科学識の伴った、「勘考」でなければならないのです。



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