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筋書きのないドラマ

「筋書きのないドラマ」という表現はよくスポーツに使われますね。主にゲーム性のあるスポーツに。

ピッタリの表現だと思います。ルールだけが決められ、その範囲でどう動くか、どう転がるか、どこに着地するかは成り行き次第、プレイヤー次第。決まってない。いろんな結末があり得る。読み切れない。

とてもワクワクします。試合を生観戦したりライブ中継では、その結末の瞬間を世界で最初にたくさんの人と共に知るわけで、この興奮は独特のものでしょう。

フィクションにはそれがないかも。

映画の公開初日には「世界で最初に見た」という興奮、テレビドラマの初放送のリアタイでは見た人同士で一体感があるかもしれませんが、フィクションなので筋書きはあります。

作品という形になった時(正確には形になる以前)に筋書きはあるし、映画ならその上映時間、漫画や小説なら最後のページをめくるまでには「なんらかの決着がつく」という安心感がどうしてもある。

ネットの漫画や小説ではページ総数が表示されない場合、「どこに向かうんだろう」というわからなさはあるかもしれません。ゴール地点が見えず今どこにいるかもわからないから。リアルな本はページの残りを意識できちゃうのでこの点劣るでしょう。

でも物語ならいずれどこかにゴールします。

スポーツにも試合終了というゴールはありますが、しのぎ合い、せめぎ合いの結果と、フィクションの意図的な結果じゃ微妙に違う。

フィクションの場合は納得いかない結末だと文句を言われたりします。もっと違う終わり方があったろうと。できたろうと。

スポーツの場合は誤審や八百長などがない限り、ひいきの選手やチームが負けても納得するしかありません。悔しくて文句を言っても最終的には受け入れるしかない。

これはもうジャンルの違いでしょう。筋書きのあるなしで受けとめられ方はだいぶ違う。

ゲームというジャンルの中にも筋書きのないものがあります。カードゲームや麻雀などは勿論ですが、シミュレーションゲーム、サンドボックスゲームと呼ばれる種類とか。世界とルールが用意され、その中でどう遊ぶか、どこで終わるかはプレイヤー次第。「マインクラフト」などですね。広大な遊び場ですが与えられた世界。運命的なもの。それを受け入れつつ自分の意思で変えていく面白さ。

名作と評判の高い「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」も長く遊べるゲームです。一応筋はあるけど辿らなくてもいい。広大な世界を探索できる。とても自由です。長年遊んでる人はこの自由さが魅力なんでしょう。ストーリーではないはずです。

ここでまたジャンルを飛び越えてラジオのこと。

ラジオは好きです。声と音だけで、映像や字幕などの情報がないから別のことをしながらも楽しめる。想像も膨らむ。そして自分にとっての何よりの魅力は、やはり筋のなさです。

欠かさず聞く番組はそれほど多くありませんがトーク主体の番組で、しかしテレビのトーク番組より自由、話題は決まってなく行き当たりばったりの感じ。流れであちこち話が飛び、「なんのハナシしてたっけ?」なんてことがよくあります。まとまらないままCMに行ったり、時には「また来週」となったり。

生放送なのでカットしたりの編集もない。その荒っぽさ、テキトーさがいいんですね。まとまりがないように見えて(いや聞こえて)話し手はプロだから語り口が面白くつい聞いちゃう。素人の雑談とは違う。まとまりのないことがリアリティーだし、身近な話題も多く親近感が湧く。

でもテレビのトーク番組だと大半カットされるだろうな、と思います。ラジオよりずっと大勢を相手にするメディアですから、綺麗に整え無難にしちゃう。話がそれたりモタモタすると厭きられ離れられると矢継ぎ早に要点を繋いでいく。

でもこれ、フィクションならもっとでしょう。物語の進行と関係ない部分はまっ先に切られる。「いいから話を進めろよ」と。

フィクションは筋を辿ること、進めること、そのために動くことが第一で、それ以外は邪魔にされがちです。サザエさんのような日常のショートエピソード集でさえ、関連しないエピソードは省かれる。特集した話題でなんらかのオチをめざす。

筋書きがある以上締めくくるのがゴールで、仕方ないのかもしれません。物語の宿命なんだと思います。ラジオのような魅力をフィクションで再現しようとしても、台本があると思うとシラける。ラジオにはかなわない。向いてない。

そんな限界があれこれある、そういう性質のものなんだろう、と思います。

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