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「明暦の大火 都市改造という神話」を読んで

イギリスの歴史学者、E・H・カーの「歴史とは何か」によると、

歴史とは

・書き残されている「事実」だけでは歴史にならない。
・歴史家がどの事実に着目するかによって、その後に残る歴史が変わる。
・つまり、事実だけを取ってみても、まず事実を書き残す同時代人の主観が入り、その後それを整理・解釈する者の主観が入る。

よってイギリスの歴史家コリングウッドの言うとおり、歴史とは何かを考える上では、以下を理解しなければならない、としている。すなわち

①事実や歴史書を書き残した人物の思想体系や価値体系
②研究対象としている過去の人々の思想体系や価値体系
③自分自身が現代という時代の思想体系や価値体系に縛られているという事実

2021年9月、吉川弘文館から発刊された「明暦の大火 都市改造という神話」(著者:岩本馨 京都工芸繊維大学准教授)では、カーの説いた①②③の哲学が明確に取り入れられている。特に、後世によって作られた『明暦に対価によって江戸の街並みが一新した』という「神話」を、「事実」の積み重ねによって解消している。しかし古い時代になればなるほどその「事実」は見えにくくなることから、膨大な過去資料を照らし合わせ、食い違いのピックアップなど、通説ではなく客観的な検証によって「事実」を明らかにしている。そしてその新しい「事実」から、『当時の思想体系や価値体系』を明らかにしていき、現代において参考となる事象を掘り出している。

簡単にいえば、明暦の大火によって江戸幕府の「まちづくり政策」が大きく変わったとは言えない、というものだが、その立証のための資料検証と考察の過程は非常に優れたものであり、これぞ『検証』という作業にふさわしいと思う。岩本氏は弁護士か検事か、あるいは難解事件を解き明かす名探偵のようだ(フィールドリサーチも、資料検証も、一部の小説やアニメの名探偵の推理などと違いとても地味なものであるが)。

この書から私が読み取ったのは、「まちづくり政策」とは連続的なものであり、災害などの反省を取り入れることはあるにせよ、災害によってそれまでの都市のダイナミズムが大きく変えるようなことはないだろうということだ。都市の生命体のような動きを見極めつつ、将来に向けた丁寧な一つ一つの政策が必要なのだ。むろん現代では鉄道の発達や道路や大きな商業施設の開設で都市の動きが急激に変わることはある。しかし、それであっても大局から見たまちの動きがあってこそである。

具体的に話をすれば、阪神淡路大震災のあと、街並みの風景は大きく変わっただろうが、人の動きや活動に大きな変わりはなく、相変わらず阪神間は日本の大動脈であり、神戸市には多くの人が住んでいて、商業の中心地ではある(ただし、その経済的機能は徐々に大阪にシフトしているが、これは震災が原因ではなく単に神戸の求心力が失われているせいである)。
東北大震災のあと、多くのまちの再生が必死に図られ、少しずつ営みは再生されつつあるが、地方の衰退という事実は変わらない。

明暦の大火以前から、江戸の町は人口の増大という難問を抱えてきた。そのうえで、いまでいう文京区駒込方面への寺社の移転や武家屋敷の築地や墨田区方面への移転ということが図られてきたことが明確になった。明暦の大火はその流れを促進したことはあったのだろうが、「改造」ということがこの機に図られたわけではない。むしろ、災害のあとはまずは生活の復旧に精いっぱいであり、その後を見据えた政策の打ち出しというのは後手になりやすい(ただし、大火のあと幕府が出したいくつかの政策は江戸時代でありながらその先見性などは目を見張るものがあるが、それは逆にいえば、従来からある程度政策として都市の拡張における武家屋敷の移転や寺社の移転などが計画されていたことの裏返しであろう)。

個人的な見解だが、東北大震災のあとで各地で行われた「まちづくり政策」については、一度大きく検証した方がいいと思っている(もちろん検証を始めていくつかの書籍なども出ていることは承知している)。震災にかかわらず、全国各地の地方活性化のバラ色の計画(移住の増加、創業の増加、若者のUターンなど、企業の誘致)がどのエリアでもほとんど100点満点の実現ができていないことは明確だ。それなのに、まだその政策を進めようとしている。人口縮小ということに正面から向き合った「まちづくり政策」を打ち出していかないと、災害の反省によって作られる様々な施設も結局は無駄になるだろう。

明暦の大火の時代は、江戸という町は拡大の途上にあった。今は、東京と一部の都市を除いてみな縮小の一途をたどっている。2011年以降特に「災害に強い街づくり」という文字が各地の政策に踊っているが、そもそも災害に対して強いというのはハード面における都市構造だけではないはず。ソフト面(経済やコミュニティ)の強さもなくてはならない。コミュニティについては多くの施策が出ているが、経済までつながっているかというと疑問がある。また、その施策も人口縮小という大前提をいかに受け止めるかというところに目が向いているかというとそうとも言えない。

2014年7月号の中央公論で、ときの復興大臣政務官小泉進次郎氏と宮城県女川町長須田氏、日本創生会議座長増田寛也氏の座談会のテーマは「すべてのまちは救えない」というものだった。そこで語られていた小テーマで、「縮小に向けた住民合意」というものがあった。明暦の大火では江戸幕府という中央集権があった(とはいえ幕府がこの時代から特に江戸後期にかけてまちづくりにおいて絶対の権力者ではなかった、というのはこの本や岩本氏の別著作「江戸の政権交代と武家屋敷(2012 吉川弘文館)」でもわかる)。いまでは、住民一人一人に街をどうするかという決定権がゆだねられているが、自分のまちを自分の代でたたむなどという決断はできるかどうか。

こう考えると、明暦の大火は都市改造のきっかけとなった、という神話の向こうに見えてくるのは、人口縮小というこの日本においては、「縮小や消滅を前提としたまちづくり」が、災害によって加速されるもしくは消滅の契機となる、ということかもしれない。復興という行為は、そのまちでの営みがそれまでに強くあってこその復興である。シビアにその視点を持ったうえで、これからの自治体(特に地方)は「災害に強い街づくり」という大義名分をいったんは横において、「これからのまちをどう考えるか」ということをもっと真剣に考えていく必要があるのではないか、ということを強く感じた。

また、一方でここまで肥大化した東京という町はもはや災害に耐えられないだろうと思われる。災害だけでなく、これ以上人が多く住んでも満員電車が増えて土地代が上がって古くから住む人が相続税に苦しんで、結果売り払われた櫛の歯が抜けたような小さな土地は背高のっぽの細身のビルばかりになり、丸の内など一部エリアを除いて商業ビルは空きテナントばかりになり、、、今はコロナ対策ということで手一杯だろうが、都市部がワクチン接種も感染者の拡大防止もうまくいかなかったことを見ても肥大化した都市のデメリットは明らかである。

大都市は大都市で、「スリム化」ということに真剣に取り組んでいかないと、国としての持続可能性が損なわれるばかりだと思われる。


明暦の大火はいまから約350年前であった。いまから350年後、いまの都市図や都市計画などの文献を見て、後世の人はどう評価するだろうか。

ちなみにこの本で初めて知ったのだが、明暦の大火のあと寺社の移転がいくつか行われていた。その中に、文京区千駄木というところから駒込というところに移されたお寺の一つに長元寺という日蓮宗のお寺がある。このまま何か大きな事態が起きない限り、私がそのお寺の中の祖父母のお墓を管理し、私の父母をそこに納骨し、ひょっとしたら私もそこに入ることになる。


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