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神様を信じているからこそ、宗教を信じていません。

ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の映画『ジャンヌ・ダルク』の冒頭で描かれた幼いジャンヌが出会った神様。
松任谷由実の曲『やさしさに包まれたなら』の冒頭の歌詞「小さい頃は神様がいて~」で歌われる情景。
これらは、世界中の誰もが理解できる感覚なのではないだろうか。

どんな宗教も、その始まりは素朴なものだったのだと思われます。
それがいつの間にか権力者に利用され、あるいは権力者に支配される側が
思考を単純化するために祭り上げ、カルト化するのではないでしょか?

この現象は宗教に限ったことではありません。
脱炭素のSDGsも、多様性のLGBTQも、最近は何かおかしいと感じます。

バブル崩壊後、世間で注目され始めたリサイクルや「もったいない」
平成の初頭にあった、少数派の意見も聞いて話し合っていこうという機運
これらは素直に共感できるもので、煙たがる人はいても、今のように対立を煽るものではなかったと記憶しています。

私も様々な場面で少数派な人間ですし、私の発言のいくらかは多数派否定になっているのは事実です。
しかし、だからといって現在の多数派を押し退けたいのではありません。
日和見層を取り込んで多数派の常識を差し替えたところで結局、何も変わらないし幸せになれるとも思えないからです。

私が多数派の人達に要求しているのは、「自分は無個性なのでは?」という劣等感の裏返しとしての傲慢さで、想像力と思いやりに欠けた行動・発言をするのを改めて欲しいだけで、彼ら彼女らの持ち合わせている感性を否定しているわけではないのです。

小学生の頃に普通に国語が得意であったであろう日本の多数派の人々の感性そのものに関しては、私はとても肯定的に捉えています。
寧ろ、その感性そのものを否定的に捉えているのは、当のご本人達ではないでしょうか?
その劣等感が、ご自身も他人も傷つけていることを理解して欲しいのです。

私は屁理屈が得意です。
だから、もっともらしい事を宣おうと思えば、多分できます。
どこぞの新興政党は、その手法で中高年男性を中心に支持を広げているようですが…仮に、その主張が正しかったとして、意味があるのでしょうか?

どんなやり方・考え方でも、必ず得をする人と損をする人が出てきます。
だからこそ、得をしている人がその分を周りに還元し、損をした人は冷静に対応できるよう、より多くの人々に地道に理解して貰うしかないのです。

人間は、何かを愛したい生き物です。
居場所や仲間、恋をしたり、ファンになったり、皆で考えて声を上げたり。
生き甲斐であり楽しみで、だからとても大切なものです。

それを地道に理解して貰うには、どうすればよいのでしょう?
あなたが本当に伝えたいことは何ですか?
私が本当に言いたいことは、何なのだろう?

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