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何がしたいが分からない。学生時代

お受験して入った小学校で見えた世界の違い

今までは家と幼稚園という小さな社会にいたのに小学校に入学したら電車で通学になった。

電車通学といっても、ご近所から通っている生徒もおらず、
小学校に行くまでほぼ、一人。
ランドセルを背負って通学していた。

中学校までエスカレーター式の学校で、人数も幼稚園と比べてぐっと増え、顔も名前もなかなか覚えられない。
ドキドキの小学校生活は、すぐに辛くなった。
みんなお受験をするような家庭に育った子供たちだからプライドも高く、実際教育もされている裕福な家の子供たちばかり。
好きなもの、家で食べているもの、お休みの過ごし方、ちょっとした雑談も分からない言葉がでてくる。

何それ?
ときいたら、え?知らないの。という反応が返ってきた。

この人たちのお家は私の家とは違う。
なんだか、怖くなってきちゃって、あんまり話さないでおこう。
と決めた。

遊んだり話すけど、心から信頼できるというのではない。
距離をどこか置いて友達と過ごした。

学校の教育方針が自主性を育てるということだったから
自分で考えてやるということがすごく多かった。
今まで母に全部聞いて母が望んだとおりに動いていた私は困り果てた。

何したらいいんだろう。
何と答えたらいいんだろう。
これは正解?

先生やクラスメイトの顔色をうかがい、問題ないと判断したものを選んで安心を得ていた。

この9年間の学校生活は、あんまり記憶が残っていない。
小さいころから続けてた水泳も練習が多かったし、
気持ちが離れていたからなのか。

やっとこの学校から離れられる。
とうれしかった高校受験。
公立の学校に入ることが出来た。

バカから優等生扱い。どこにいっても馴染めないのか。

高校に入って見たら、8クラスもある。
みんな同じ中学校卒業した仲間がいて、知った顔がある。
とっても楽しそうだった。

小学校中学校一緒ではいったのは、私をいれて3人。
同じ学校を出たけど仲がいいわけでもなく、一人ぽつーん。

クラスメイトや先生からは、
あの○○学校卒だから賢い子だね。
と言われ、ちやほやしてくれる。

でも小学校中学校での成績は下から数えた方が早かった私は
ものすごく嫌味に受け取ってしまった。

今まで、バカ扱いされていたのに、高校では賢い子扱いなんて。
まるで正反対の扱い。

居心地が悪くってたまらなかった。

次の進路ではあうところが見つかるだろうか。
母と話して、勉強が好きなわけではないし、体育が好きなわけでもない。
1人部屋にこもって描ける絵や読書ができる学校がいいなぁ。
これに行きたい!じゃなくって、嫌いなものからはじいていって、これかな?で選んだのは、美術大学の染織だった。

すべりどめで受けた美術系短大は受かり、さぁあとは本命だ。
とおもったところで阪神淡路大震災に被災した。

朝起きたら、生きるか死ぬかの世界へ

その日、朝グラグラ、、、、グラグラグラグラドドドド
どんどん揺れがひどくなり目が覚めた。

地面から横に揺れていて、フライングカーペットにでも乗っているかのよう。この長い揺れは止まるんだろうか。ものすごく怖かった。

揺れが止まり、あたりから「助けて」という声がする。
空をみると、真っ赤にそまっていて今まで見たことがない異常な色だった。

そしてあわててテレビをつけたら、地震がすさまじい規模のものだったことが分かる。
直後数時間はテレビや電話が通じたので、親戚から連絡があり少し話した。

幸いうちの家族は無事だったけども、
外の世界はむちゃくちゃになっていて、普通の暮らしができるとは思えなかった。

両親が避難所へ行こうと決めて、みんなで着の身着のまま、避難所へ。
そのままそこで2か月くらいだったか。暮らした。

家に戻っても生きていけない。
でも、暮らしを立て直さなければ。
きっと父母の頭のなかは、真っ暗だっただろう。

正直生きていればいいや。と思った。
大学だなんていけるはずがない。
それでも、母は、受験をしなさい。と背中をおしまくって
大阪に住んでいる友達の家に泊まるようにして大阪の大学の受験を
後押ししてくれた。

残念ながら落ちたのだけども。

名の通った大学の空気や
受験生たちを感じることが出来て、自分の青さが恥ずかしくなった。

そして、すでに受かっていた京都の美術系短大に行くことになった。

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