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映画日記:トウキョウソナタ

黒沢清監督が家族を撮った作品。好きというのとは違うけれど記憶に滓のように残り、数年おきに観たくなる映画。

ネタバレあらすじ。
タニタの総務課長だったがリストラされた父(香川照之)、
家族他に振り回され続ける専業主婦(小泉今日子)、
「日本を守るため」突如米軍へ志願してそのまま中東へ派兵されるフリーターの長男(小柳友)、
思ったことをすぐストレートに言葉にする為に教師(児嶋一哉)と折り合いが悪く、近所のピアノ教室(講師:井川遥)に給食費をつぎ込む6年生の次男(井之脇海)、
からなる四人家族、佐々木家の物語。
駒場にある持ち家に暮らしている。
父は新たな職を探すけれど、時給の安いアルバイトしか紹介されない。
家長としての威厳にこだわる彼は、失業を隠して毎朝スーツ姿で出掛け、昼は炊き出しの行列に並ぶ。並ぶ最中に同じく無職でないふりをしている元同級生(津田寛治)と再会し意気投合するも、彼は中学生の娘(土屋太鳳)を残し妻と心中する。
危機感を抱いた父は、ショッピングモールでの清掃バイトに就き、作業中に札束入り封筒を拾う。逡巡の後に持ち去ろうとしたところで妻と遭遇し慌てて走り去る。
走り続けた末に轢き逃げされてしばし気絶し、正気に戻ってショッピングモールの遺失物届けに封筒を投入、ボロボロの身体のまま帰宅する。
その日、佐々木家には要領悪そうな強盗(役所広司)が押し入り、妻は人質として盗難車を運転させられていて、夫とぶつかったのはトイレ休憩にモールへ入った時だった。
夫に会話無しに立ち去られた妻は、反発からかストックホルム症候群か、逃げられる状況だったけれどそのまま強盗と行動を共にし、夜の海小屋で半ばレイプされる。強盗は彼女を女神のようだと都合よく思い込んでいる。
夜の波で体を洗った妻は光る波を眺め、朝になり一人で帰宅する。
次男は、こっそり通ったピアノ教室で才能を発掘されたものの、父にばれて殴られてやめてしまう。翌日、家出した友達に遭遇し家出に付き合うけれど友達だけ連れ戻され、一人で夜行バスに無賃乗車しようとしたところを捕まる。黙秘した為に留置場へ放り込まれた後、不起訴で釈放されて帰宅する。
家族はその一夜にそれぞれの場所で死ぬ目に遭い、生き延びて一人一人歩いて帰宅し、何が起こったかお互いに説明しないまま、ただ朝食を共にして日常へと戻る。
音楽学校の受験会場で次男が見事な腕前を披露し、両親がそれを眺めている場面で、映画は幕を閉じる。

感想など。
当時の東京のハローワークは番号札制度がまだ入って無かった?何度見てもカフカ的で怖い。
爽快さの欠片もない映画だけど、わたしは嫌いになれない。荒れた夜の海に差す微かな光、湿気を孕んだ風と波音が繰りすイメージが残る。登場人物とわたしの共通した心象風景。
最後に恩寵としてのピアノ演奏が訪れるけれど、次男の弾くドビュッシー「月の光」は、家族がバラバラに投げ出された夜を再現するかのようで、光はあるけれどごく微かだ。
この先も一家の収入は心許なく、たぶん持ち家を手放したり奨学金も必要で、次男がピアニストとなることが保証されてもいない。
長男は戻らず、行動の後で考える直情的な彼の性質とその後のアラブ社会を考え合わせると、いずれテロ集団に加わっても不思議ではない。
一見すると日本版『リトル・ダンサー』のようなストーリーに見えるけれど、少年の「成長」と家族の絆にスポットを当てる分かりやすさとは無縁の、気持ち悪い(褒めてる)展開が繰り広げられる。
悪の姿が曖昧なまま不穏な事件が重ねられ、家族が言葉や行動を交わした結果で結びつきを新たにするのではなく、それぞれの場所で危機を通過した後に、何の説明もないまま無言で再結集して食事を共にするだけで終わる。
その曖昧さこそが日本をくっきりと描いていて、かつ同時に微妙な一般受けの悪さを招いているのではなかろうか。(避けられがちな政治が一瞬ありありと入っていることや、主役の不祥事が原因かもしれないけれど。)
監督がプロデューサー側から設定されたのは、東京を舞台にするという一点だけだったそうだ。
https://www.hmv.co.jp/news/article/808260070/
脚本は監督を含む3人の共作になっているけれど、うちマックス・マニックス氏はオーストラリアのラグビー選手出身という異色の経歴の人で、彼の目から見た東京の姿も反映されているらしい。
外へ飛び出す長男のキャラクターは監督自身の思い入れで作られた。
https://www.cinra.net/article/interview-2008-09-16-203000-php
佐々木家の父親は、大企業の年功序列の安泰な列からはじき出され、そのまま次は求職と炊き出しの列へと流されて並ぶ。ただ並ぶ先が移動するだけ、特に悪いことはしていないのに報酬は悪くなる一方だ。
彼が真に自分で選択するには、一旦逸脱をして仮死までする必要があった。選択後も、息子のピアノの件を除けば以前と大して変わらず、別の列集団に移動するだけのようにも見えるけれど、決断することが重要だ。
子ども達は親世代と違い、行列に並ぶことと自分で選び能力を発揮することの両方を同時に求められており、2人とも、危なっかしいけれどずっと自分で選択している。
自己選択の余地が少ない封建制と、選択と能力発揮とを突きつけられるグローバル資本主義と、どちらがより良いかは映画では示されないし、今後もずるずる共存していきそうに見える。
子らは親に対して、反抗心とそれでも従いたい気持ちとを両方抱えている。
矛盾する感情の両方を同時に持つことを自分にゆるせばいい、と彼らを見ると思う。それだからスッキリ出来ないんだよな、とも思うけれど。
最初にうっかり窓を開けていて風雨が室内へ吹き込む場面で暗喩的に始まり、最後に晴れた教室にピアノの音が広がる中、レースのカーテンが風に揺れる場面で終わる。その光景が、何だか一番「黒沢清っぽい」感じがした。現代の東京が舞台なのに、すごく、昔のフランス映画みたいだ。
免許取り立ての妻がディーラーで試乗した車も強盗が盗ってきて彼女が運転した車も、どちらもオープンカーだった。家のサッシを2度不用意に開け放していたのも彼女。それは、あの家に風=展開を迎え入れようとしたのが実は彼女だったと示している。
妻は、おそらくこの後働きに出るだろう。「誰かわたしをひっぱって」とつぶやいた彼女は、救いの手を諦めきれただろうか分からないが、少なくとも男による救いは諦めただろう。
強盗などの被害を届け出たのかは不明。彼女の強盗への感情は、映画の中では説明されない。そこがこの映画のもやもやポイントなのだけれど、そもそも黒沢清監督は感情は撮れない撮れるのは行動などの表層のみ、という考えの人なのでした。(『曖昧な未来、黒沢清』参照)
夫も妻も、努力はするものの幸福を他者の決定に委ねていて、妻の強盗との関り方にも結局それが現われていたのではないか。そこに親しみというほどの感情はなく、現状からの逸脱願望でしかなかったように思う。

音楽について。
わたしも、昔ピアノの発表会でドビュッシー「月の光」を弾いた。
母の心残りに付き合う形で、半ば無理やりピアノ教室に通わされ(そこの先生も、この映画のように離婚して実家に戻ってきた)、殆ど練習せずセンスもないから下手くそで、でも曲は好きだったほの暗い思い出。
とは言え、ドビュッシー、ショパン、リストやラヴェルなどのピアノ曲を聴くのは今も好きだ。ピアノという楽器の音色自体に心地良さを感じる。
映画タイトルにソナタを掲げているのに、クライマックスに登場する「月の光」は(自信はないけれど)たぶんソナタ形式でない?少なくともソナタの例としては上がって来ない。
ドビュッシー自身はよくソナタの代表的作曲家に数えられていて、最期に作曲途中だったのもソナタだ。
興味深いので、以下、音楽的なことなどで調べた結果を書き出してみる。

ソナタは、1600年前後に生まれ、ジョン・ケージなどの現代音楽家にも使用されている形式。明確な定義は決まっていないようだけれど、一応、室内楽で緩→急→緩→急という順の四部か三部くらいで構成される形式、と把握するのが一般的なのだろう。
時代によって、通奏低音があるタイプが好まれたり個別形式が好まれたりとうつり変わったようだ。
この映画をソナタ形式とするならば、元同級生の心中以前の辺りと、戻って来て朝食を食べた時点まで、そしてエンディング、緩急緩の三部構成と考えてもいいだろうか。四部に分けられるかしら?
参照:コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF-90235#goog_rewarded
「ドビュッシー=印象派の音楽家」と学校では暗記させられたけれど、本人は「象徴主義(サンボリスム)」を標榜していたそうだ。
象徴主義とは、19世紀後半フランス・ベルギーで写実主義へのカウンターとして発生した流派で、詩人モレアスが宣言文で提唱し、音楽や美術全般へと広がった。
https://kotobank.jp/word/%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E4%B8%BB%E7%BE%A9-79533
写実主義や印象派は見えている物を忠実に描く。象徴主義は目に見えない精神や霊や夢などを表現しようと試み、後のシュルレアリスムへと繋がった。
見えないものを見つめて表現するのは危険だからか、象徴主義の芸術家は退廃的で幸福でなさそうな人達だ。ヴェルレーヌにランボーにマラルメ、ルドンにクリムトにムンク。(できればゴッホも仲間に入れてあげたかった。)
ドビュッシーは派閥の中では比較的言動がまともに見えるけれど、より内向的だったせいとも言えそう。
詩人マラルメは「世界は一冊の書物に至るために作られている」と主張し、デリダやロランに先立って「エクリチュール(書き言葉)」に注目して「芸術の表象が記号として機能している」ことを見破った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%A1
(マラルメの完璧主義は非常に格好いいけれど、ノイズを廃している点で芸術の中心から結局逸れている気がする。そりゃ神の死を悟るはずだよ。まあ一度は神が存在したと考えているだけ素直ではあるか。)
ドビュッシーはマラルメと親交が深く、また、「月の光」を含むベルガマスク組曲は、ヴェルレーヌの詩やフォーレの曲を意識したものらしい。
組曲の各自が別々の複雑な拍子構成になっていて、「月の光」は8分の9拍子、速度標語は′andante très expressif’=「ゆっくりととても表情豊かに」。
「月の光」は当初は「感傷的な散歩道」を意味するタイトルだったそうな。どちらの題名も映画の内容を指しているではありませんか!ソナタ形式でないとしても、この曲を弾くことが選ばれたのは、やはり必然か。
象徴主義を検索していたら、アヴァンギャルド映画にも印象主義の系譜が受け継がれているとも書かれており(芸術全般が通過したんだもの)、風や暗闇に火や水を効果的に配置して不安を煽る、暗黒期のムンクの絵のような黒沢映画は、象徴主義的と表現して問題なさそうに感じる。
歴史的に芸術の写実と抽象とは交互に流行してきたけれど、流行の本流が細くなった現在は、両方同時に流行っている状態ではないか。
ただ、大衆受けするのは両方の表層であって、真の写実と内省とは、一般の理解の範疇を超えたところで生息しているのかも。作者すらその本質を理解せず創る場合も多いし。どうせなら両者がぶつかり溶けあうような間際にじっくりと遭遇したいものだ。もし叶うならそれを写真に遺したい。
その波はすぐ近くまで来ている感じがする。

ドビュッシーと直接関係はないけど、「フォノトグラフ」という世界最古の音声波形記録装置で最初に描かれたのは、フランス民謡「月の光に」だそうだ。バイエルなどの練習譜にも入っていて、日本では「隣のおばさん今晩は、きれいなきれいな月夜です」と歌詞がついている。
フォノトグラフ、ガラス板を記録に用いた時期もあるそうで、写真&音楽好きとしては何とも気になる装置だ。

キャプチャ写真は、海辺で撮った月の光の写真はぱっと見つからなかったので、東京の下町で撮った猫の写真にしました。



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