見出し画像

いい指導者とはどのようなものなのか

いい指導者とはいったいどのような指導者なのでしょうか。
仕事柄、ふと考えることがあります。
指導者といってもさまざまな分野の指導者が存在しますが、私がこれまで見聞きしてきた指導者について、これまでこうあるべきではないかというアイデアと事例を踏まえて書いていきます。

最近関わった生徒さんから、おもしろい話を聞きました。
その生徒さんは私のところにたどり着くまで、塾や他の家庭教師を経験し過去にこういう事があったそうです。
その生徒さんは兄弟がいて、かつて兄弟二人まとめて家庭教師の指導を受けていた時期があるそうです。
その家庭教師は中年でとにかくたばこ臭く、体臭がきつかったそうです。そのうち、その兄弟はその体臭のキツさと指導能力の力量不足から、どうしてもその家庭教師を好きになれず、その家庭教師を家に来させない方策を二人で考えたそうです。
その方策は、成績を上げて親御さんにもう大丈夫だと言わせるというものだったそうです。それからその二人はとても頑張り、その家庭教師に頼らないでも良いように学校成績を向上させたそうです。
実に興味深い話です。指導力が足らない臭い家庭教師は、その指導の内容を度外視して、生徒に嫌われる事によってその職を全うしたのです。
何はどうあれ、結果を出す方向に導けたわけですから、それはこれで正解だったのかもしれません。

また、私は野球が熱狂的に好きで50を過ぎた今も、グランドに立ち続けているのですが、その影響からか自分の息子も小学生の低学年から高校野球まで野球をやり遂げました。その時に多く目の当たりにして、おそらく今も改善の手が入ってないのではないかということを少々。
端的に少々きつい言葉を使って書きますと、子どもたちを指導するに値しない資質の、むしろやってはならない人格の指導者たちを多く見てきました。
無論、素晴らしい指導をされる指導者も若干名みさせて頂きましたが。

子どもたちはプロ野球選手でもメジャーリーガーでもありません。下手くそでなかなか口ほどにうまく結果に結びつけられないものです。これは私自身にもあてはまります。なかなかうまくいかないので、まだまだ向上の余地は残されていると真剣に思ってしまっているところになかなか止められない要因があります。このあたりは私の野球狂の病巣が深いのですが、単純に野球というスポーツほど面白いスポーツはなかなかありません。
単に好きでやりたくてチームに参加してきている子どもたちが辞めていく。
眼の前で何人の子どもたちが、この野球というスポーツをやめていったことでしょう。
原因は、無茶苦茶ででたらめな指導、練習中やプレー中に浴びせられ続けられる罵詈雑言です。人格否定も甚だしかった。その指導は子どもたちの故障にも繋がりました。
その指導者たちの中には、一緒に草野球でプレーしたこのある人たちもいましたが、お世辞にも上手ではなく、子どもたちを指導している半狂乱状態で怒鳴りつけている人格とは別人のような連中で、同じ土俵でプレーしている時は至って大人しく静かにプレーする連中でした。なぜなら自分がそこまで上手くないから、活躍することができないからです。
それなのに子どもたちの指導になると言葉を選べない、指導能力を磨かない、責任は全て子どもたち、このような救いようのない構造が存在します。
このような構造を生んでしまう根底には、指導を無償のボランティア指導者に頼らざるを得ない状況ということがひとつあります。
私自身、すでに息子も成人し、その分野には現在携わってはおりませんが、どっぷりと関わっていた時期、父兄としてそのようなモンスター指導者にいち野球愛好家として対処したかというと、時には真正面からぶつかってもみました。当時、子どもたちを守るため、兎にも角にも普通にやっていたら嫌いになるわけがない素晴らしいうスポーツを嫌いにさせてしまう繰り返される大人たちの愚行を止めさせるべきだという強い使命感みたいなものが働きました。

私の考え方は好きなことは、伸び伸びとやらせることがとても大切だと思います。細かいことはあとからでいいのです。伸び伸びとやらせていると、自ずと集中力が生まれてきます。すると活躍したくなる、結果が欲しくなるという方向性を少なからず踏むことになります。そうすると自分を見つめます。そこに成長が生まれます。向上心も生まれます。

私の学習指導の根本もここにあります。

好きにさせてしまえば、こっちのもので、あとは一人一人に合った必要なことの質と量を冷静に見極めて渡していけばいいのです。
そして、その伸び具合を俯瞰して眺め、深度を深め、拡張を図っていく、この繰り返しで人材というのは驚くほど伸びていきます。

私がみてきた野球指導というのは、あまりにも、真逆の世界、指導的立場、絶対的に優位な立場の大人たちが間違った情熱で引きずり込んでしまうとても狭い世界観、もううんざりといった感じを今振り返ってみても、そう思います。
最高に面白い野球をやめさせてしまっている大人たちの指導というのは、私の中でとても悪い例として刻まれています。

指導という言葉の中には、指導する側とされる側が存在します。
そのなかで指導する側により多くの問題が内在しているように思われます。
そして、プロセス(経過)を経て、いずれかの結果というところに導かれます。
指導側はされる側にどれだけの成果、感動、最高のストーリーを与えられるのか。少なくともそれくらいの青写真を描いて、自分以外の誰かのご指導を賜るべきではないかと思うのです。言葉すら選べない場当たり的、衝動的な指導と名をつけた間違い。学校や職場、人間社会全般で繰り返されることして捉えなくてはならないことは、広義において、仕方がないこととして残念ですが、人間であることの所以、間違いも踏まえて生きていかなくてはならないことも事実です。そのような事象に出会った時に、どう対処していくのか、個々の判断が試され続けます。

しかしながら、私自身としては、自分の描いた理想像を追い求めて止みません。私に出会った人たちが、少しでも勇気づけられ、人生をうまくいけばそんな嬉しいことはありません。
幸いこのような職業に出会えて、自分以外の誰かを嫌いなものを好きに、そして、より先へ導いていける能力が備わった人生を歩むことができています。

ちなみにこの回の冒頭に例を挙げさせて頂いた生徒さんは、1ヶ月あまりの短い指導期間経過で学年末試験で人生最高得点を叩き出してくれました。
私の誇りがまたひとつ、ひとつと積み重なっていきます。

野球に関しては、私の息子くらいの年齢の教え子たちやその仲間たちと一緒に今から試合です。数十年前からある老舗チームを引き継ぎ、紆余曲折を経てそのようなメンバー構成になりました。
その中には、指導者に恵まれず、2軍3軍扱いにされて試合にも出されなかった連中が多々います。監督兼、現役バリバリ(自称)でやっている私のもとでは、才能を見出され、本領を発揮して主力級の働きを見せてくれています。口癖のようにいつも言うことは、ミスを恐れるな!思いきってやれ!です。
その子達は、20歳前後でもう1回野球を好きになって、打てなっかたら自分で悔しがり、守れなかったら勝手に練習してどんどん上手くなっていっています。おかげさまでチーム運営は良好、年々強くなっています。
若い人たちに結果で負けないように、精進の日々は続きます。
指導ということと、自分が結果で見せていくこと。
この事は、同じグラウンドに立ち続けることによって、野球という素晴らしい競技に教えられ続けています。
厳しくも幸せな時間にいつも感謝しています。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?